第7話 困窮
博史は追い込まれていた。体調と腰痛は悪くなるばかり。そこに、物価高、生活苦が博史を圧迫していく。
精神的にも身体的にもボロボロだった。働きたくても、体も心も限界に近く、これ以上働くことができない。でも、物価は上がるし、医療費はかかって来るし、母は老い、むしろお金は必要になって来る。
博史は今のこの現状をどう抜け出していいのかさえ分からなかった。希望も何も、来月とか明日すらが見えなかった。そのことがさらに博史を精神的に追い込んでいった。
「来月から、今まで君が受けていた、医療費の減免制度が廃止になるんだ」
突然、かかりつけの精神科の医師が言った。精神疾患を患う低所得者には、特別に受けられる市の医療費減免制度があった。それにより、博史は医療費負担がかなり助けられていた。本来なら月一万円以上かかる医療費や薬代が、千五百円から二千円ほどにまで減額されていた。
「・・・」
博史は、しばし何も考えられず呆然とその場に固まった。弱り目に祟り目とはこのことで、こういう時に限ってこういうことが起こって来る。今は国全体が不況で、緊縮傾向にあった。こういう時一番割を食うのは博史のような、社会の底辺を生きる弱い立場の人間だった。弱い人間は声を上げづらい。だからそういうところの予算が真っ先に削られていってしまう。
しかし、月末になれば、博史のそんな事情など関係なく、家賃やカードの支払い日は、容赦なくやって来る。
「・・・」
お金が足りなかった。今月はあまり、働くことができなかった。体調が万全で休まず仕事に出ることができればこんなことにはならないのだが、どうしても体の無理がきかずシフトが、休みがちになってしまう。無理をすればぎっくり腰で、それこそ、一週間、二週間休まなければならなくなる。お金がなくても休まざる負えなかった。
お金が足りず、その月末、ついに博史はカードをリボ払いにした。実質的な借金だった。生まれて初めての借金だった。博史は、借金だけは嫌で、それだけはどんなに困っても今までやらずにきた。どんなに辛くても、なんとか無理してでも働いて、なんとか借金だけはしないようにしていた。しかし、若い時は無理も利いた体ももう、そういうわけにはいかなかった。今は、肉体労働や日払いの仕事などをするわけにもいかなかった。
借金はどうしても嫌だ。そんなことも言っていられないほどに、博史は追い込まれていた。足りない分、日払いの仕事で働くということもできない。誰かに頼ることも助けてもらうこともできない。一番頼れる親はむしろ、自分が支えなければならない存在だった。頼れる親戚はいなかった。父親がギャンブル中毒で、サラ金やクレジットカードだけでなく、親戚縁者からも金を借りまくり、しかも、散々迷惑をかけまくった挙句、そのままどこかへ遁走してしまっていた。親戚縁者には合わせる顔もなく、それ以来、親戚づき合いはほぼなかった。だから、博史の家族には、頼れる親戚どころか、親戚事態ほとんどいないに等しかった。
「おいっ、何ボーっとしてんだよ。ちゃんと車見ろ」
「え、あ、はい」
横断歩道に立つ博史は、歩行者がいるにもかかわらず、車を見過ごしてしまっていた。それを、車道の反対側にいた山崎に指摘される。
「どうしたんだ。大丈夫か」
「はい・・、すみません・・」
借金で回す生活。こんな生活が続くはずがない。いずれ来る破綻は目に見えていた。博史もそんなことは分かり過ぎるくらい分かっていた。
だから、働いていても、博史は借金のことが気にかかり、心が重く心ここにあらずだった。元々あった鬱に加え、さらなる精神的な重しが博史の心を圧迫していた。
「富める者は富み。貧しい者は失うばかり。古今東西これが世の常ってな」
丸山が自虐的に言った。昼休み、今日は丸山と同じ時間帯になっていた。事情は知らないが、丸山も博史と似たような境遇であることは、日々彼の語る言葉の端々でなんとなく知っていた。彼もこの職場では博史と年齢の誓い四十代で幼い頃から母子家庭。でも、彼は体が頑丈で夜勤もこなし、博史よりも実入りはよいはずだった。
丸山は一目でヤンキー上がりと分かる強面の男だった。いつもは夜勤専属で博史とはほとんど顔を合わせないのだが、今日は、岩尾が突然発熱とかで休み、急遽、夜勤の後そのまま昼間の仕事に入っていた。本当に丈夫な男で、以前、七十二時間連続勤務をしたと、自慢げに語っていたのを博史は聞いていた。
「事務所の連中は、俺たちの給料ピンハネして飯食ってんだぜ」
警備会社もしょせんはピンハネ業だった。
「あの部長と係長、元警察官だってさ。思いっきり天下りな」
呆れたように丸山が言う。
「みたいですね」
丸山が実はその見た目とは裏腹に結構気さくな人だということに、博史は少し好感を持ちながら答える。
警備員になるには、まず事務所で三日間の研修を受けなければならない。その担当が係長の安井と部長の武藤だった。二人とも元警察官で、定年退職後、この警備会社に役職つきで再雇用されていた。二人とも理知的で、感じは悪くなかったが、しかし、警察から警備会社という非常に分かりやすい天下りだったし、今のこの現場の様々な理不尽な労働環境を見て見ぬふりをしているそんな人間だった。
「日当七千円か・・」
丸山がテーブルに頬杖をつきながら呟く。
「ただ立ってるだけのあのよぼよぼのじいさんと同じ日当だぜ」
丸山が、事務所の窓から見える同じ警備員の山田を見ながら言った。山田は、もうすぐ七十歳で、頭も少し弱く、見るからに頼りない人間だった。
「・・・」
博史も山田を見る。給料は日当なので、みな一律に同じ給料だった。半分ボケたような、おじいさんもいる職場だった。そして、そういった人は、難しいことはできないので、ただ立っているだけの楽なポジションに配置される。だから、博史のような、若い人材は複雑でしんどいポジションにどうしても配置されることになる。それでも給料は一緒だった。
「ここの労働環境酷くないですか」
博史は過去に、山田と同じポジションになった時にそう訊いたことがあった。
「俺はここしかもう行くとこないから」
「・・・」
そう力なく山田が答えたのを博史は思い出す。
「まあ、でも、これでもまだ他のバイトより実入りはいいんだけどな」
丸山が言った。
「・・・」
そうだった。これでも他の同じような底辺労働と比べれば全然ましだった。
「俺たちってショッカーみたいだよな」
丸山が言った。
「えっ」
「代わりはいくらでもいるってな。ははは」
丸山は自虐的に笑う。
「俺たちの代わりなんていくらでもいるからな。はははっ」
丸山はさらに笑う。ショッカーは倒されても倒されても、次の戦闘にはちゃんとその頭数がしっかりと揃っている。
「・・・、ああ、そうですね・・」
博史は暗澹となりながらそれに答えた。
それは博史にとって笑えないリアルな現実だった。代わりはいくらでもいる。博史の代わりなど、いくらでもいる。博史もそのことをよく知っていた。むしろ、腰を痛め、休みがちな博史よりも山田のような、頭が弱く頼りがいはなくとも、体は丈夫で、会社が入って欲しい時にいつでもシフトに入ってくれる人間の方が、ここでは有用だった。
「・・・」
博史は絶望に似た先行きの真っ暗な未来を感じた。
ショッカー ロッドユール @rod0yuuru
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