第6話 哲学者

 出口の見えない絶望的な日々の中で、博史が、漫画を描くこと以外に幸せを感じるのは読書だった。休みの日、時間を気にせず朝から本を読んでいる時、それは博史にとって至福の時だった。そして、様々な種類の本の中でも博史は哲学の本を読むのが好きだった。辛い人生を生きる博史にとって、生きるとは何なのか。なぜ、これほど辛く苦しい人生を生きなければならないのか。それは博史の中に常にある疑問であり問いだった。その答えを探すように、博史は哲学書を読み漁った。

 そして、博史はその中で、外島道義という哲学者の本に、のめり込むようにはまっていった。

 彼は、彼自身も生きづらさを抱え、その生きづらさの中で哲学を学び、その中で哲学的思考を駆使し、その生きづらさに彼なりの答えを出していく。彼はこの生きづらいこの世の心理を、本の中でうまく言葉にしてくれていた。まるで自分の生きづらさのことをそのまま言語化してくれているように感じ、博史は彼の言葉を読んでいると、どこか救われた気がした。

 なぜ人は自殺してはいけないのですか。そんな質問に彼は、私が悲しいからです。と答えていた。その返答に博史は、感動した。

「この人はすごい」

 博史は思った。博史も、正直死にたいと思ったことは一度や二度ではない。だからこそ、そんな言葉が堪らなくうれしかった。

「あっ」

 そんなある日、ネットを見ていると、その彼が哲学塾をやるという告知が出ていた。一般の人でも参加可と書いてある。見た瞬間に博史は行きたいと思った。しかし、博史は、自分みたいな低学歴の人間がと、躊躇し、怯えた。そして、しかし、逡巡した。何度も逡巡した。そして、でも、行きたかった。

 博史は、勇気を振り絞って、彼にメールをしてみた。

 ドキドキして、待っていると、次の日、返信があった。

「どうぞいらしてください」

 博史は飛び上がりたいほど喜んだ。あの憧れの人から返信があっただけで、博史は興奮し感動した。博史は、その短い文面を何度も何度も読み返した。

「どうしたんだい?」

 夕食時、博史の母が、いつもと違う博史を見て、その顔を覗き込む。

「ううん」

 だが、自然と顔がにやけてしまうのを自分で感じる博史だった。

「来週、東京へ行ってくるよ」

 博史が言うと、博史の母は目を丸くした。ほとんど近場でも、外出しない息子が東京まで行くという。博史の母はどうしたことかと驚いた。

 場所は東京。正直遠かった。お金もかかる。でも、博史は、貧乏な中、何とかお金をやりくりし、遠い東京へと向かった。もちろん新幹線など乗れるはずもなく、深夜の高速バスだった。それも一番安い、座席の狭い乗り心地最悪のグレードの一番低いバス会社のものだった。

 一晩、身動きもできないほどの狭いバスの座席に押し込められ、早朝にやっと着いた東京。お尻が痛く、隣りの人が気になり、もちろんほとんど眠れなかった。体調は最悪だったが、念願の憧れの人に直に会える喜びで、博史はそれも気にならなかった。

 塾は午後からで、まだ時間があり、公園のベンチで少し昼寝をした後、博史は地図を頼りに、外島氏の哲学塾の開催場所に向かった。

「ここか・・」

 ドキドキして、それでいて期待しながら博史はビルの階段を上り、その部屋の扉を開けた。

「誰だお前っ」

 入った瞬間だった。いきなり怒声が響いた。

「えっ」

 博史は、驚く。自分に向けられたものだと、すぐには分からなかった。しかし、前を見ると。本の中の写真で何度も見たあの外島が睨むように博史を見ていた。博史は頭が混乱し、なぜ怒鳴られたのかもまったく分からないまま、しかし、憧れのあの人が目の前にいて、完全に舞い上がり固まってしまった。

 それからどこをどうしたのか分からなかったが、気づくと博史は席に座っていた。道義はやはり、なぜかものすごく不機嫌な顔している。そのことに博史は、どこか怯え、不安になる。

 塾には三十人ほどが集まっていた。博史は、その片隅の席に座っていた。みんな賢そうな人たちばかりで博史は気後れした。高校中退の博史はもちろん大学にも行っていない。まともな基礎学力もなかった。

 道義が突然博史の席の隣りに立ち、プリントを博史の方に差し出した。博史は当然、自分のものと思い、それを受取ろうとして手を出した。

「お前じゃない」

 すると、いきなり、道義がそう言って、素早く手を引っ込めた。博史の手は空を切る。

「?」

 博史は訳が分からない。ポカンとそんな博史を睨みつけるように見る外島を見る。何が起こっているのかまったく訳が分からなかった。

 そして、授業が始まった。順番に配られたプリントを参加者が読んでいく。そして、博史の番が来た。しかし・・、

「はい、次の人」

 博史の番なのに、なぜか外島によって博史の隣りの人が当てられた。

「えっ」

 博史は驚く。なぜか突然博史だけ順番を飛ばされた。

「・・・」

 博史は戸惑うばかりで。訳が分からなかった。

 休憩時間、博史は外島にトイレを借りていいですかと訊きに行く。

「あのトイレを借りてもいいですか」

「どうぞっ」

 怒りを振り絞るようにして、怒鳴るようにして言われた。

「・・・」

 博史は訳が分からなかった。なぜか、自分は嫌われている。そして、何かがおかしい。

 なぜ嫌われているのか分からなかったが、自己肯定感の低い博史は自分が悪いと思った。自分が何かしてしまったのではないかと思った。周囲を見回すと、みんなインテリ然とした人たちばかりだった。どこか気品があり、賢そうな人たちばかりに見える。博史のように、みすぼらしく、見るからに学のなさそうな人間はそこにいなかった。そこなのか。入っていきなり怒鳴られたことを考えるとそう考えてしまう。博史は不安と罪悪感に苛まれる。

 でも、哲学を学びたいというその意志があれば誰でも来てくださいと、ホームページには書いてあった。そして、本の中で道義氏は、人間に上も下もないと哲学者として論理的に語っていた。だからこそ、だからこそ、勇気を振り絞って博史はここに来たのだ。そうでなければ、社交性のまったくない気の小さな博史がこんなところまで来ることは絶対になかった。

 だが、人のいい博史はまだ道義を信じていた。何か誤解があるに違いない。それが解ければ、僕のことを分かってくれるに違いない。博史はそう思った。

「私が悲しいからです」

 あんなことの言える、あの、本で読んだあの人がそんな冷たい人であるはずがない。

 しかし、二コマの授業が終わった休憩の時間でのことだった。

「今日はどうでしたか?」

 何か気持ちの悪い声が、博史の座る席のすぐ近くで聞こえた。なんだかすごく変な猫なで声のような声だった。博史がその方を見ると、道義がいた。その前には参加者の女性がいた。それは道義がその女性に声をかけていた声だった。

「ちょっと難しかったですか?」

 道義はねとつくような声でさらに声をかける。声をかけられた中年のその女性は困惑したような顔をしている。だが、道義はそんなこと関係なく話しかけ続ける。そして、それはその人、一人ではなかった。その後も別の女性、別の女性と次々声をかけていく。それは男性をすべて無視するがごとく、完全に女性だけだった。

「・・・」

 博史は呆然とその光景を見つめる。当然、周りには、他の生徒たちもいるのだ。

「今日はどうでしたか?ちょっと難しかったですか?」

 それは博史に対するものとはまったく違う声音だった。それは、正に猫をなでるような気持ちの悪い声だった。

 声をかけられた女性たちは、やはり、みな一様に困惑している。声のかけ方、タイミング、明らかに何かがおかしかった。

「・・・」

 その光景に博史はある種の気持ち悪さを感じた。嫌悪感に似たものだった。この時、さすがに博史はこいつはおかしいと気づいた。今まで薄々感じていた事実――。さすがに人のいい博史も、その事実に気づいた。

 自分が、憧れ、救世主のように思っていた人間は、ただのトンデモじじいだった。頭のイカレた人間だった。完全に頭のおかしな人間だった。それを博史は、今目の前で突きつけられていた。

 

「・・・」

 その帰り道。博史は、打ちのめされていた。この暗く辛い、孤独な人生の唯一の救いだったその人が、その人の言葉が、哲学が、実際はまったく、ただのそれは上っ面な虚飾でしかなかった。実際のその人は、本で読んだイメージとは百八十度どころか、別次元でかけ離れた、ただのトンデモなじいさんでしかなかった。

 実際に見た外島は信じられないくらい最低な奴だった。信じられないくらい常識を超えたとんでもない人間だった。人間として最低な、人間として重要な何かが欠落した人間だった。

 授業の終わり、授業料を払おうと道義の助手のようなことをしていた東大の学生の前にいった時だった。その学生が、にやにやと博史を見て笑っていた。どこまでも最低だった。信じられないくらい何もかもが最低だった。

「これが現実の社会なのか・・」

 博史は現実を知り、愕然とする。哲学者・・、元大学教授、東大卒、ウィーンに留学、そんな立派な人があんな・・。あんな・・。博史は、今、実際に自分が見てきたことを、信じられず、今まで自分が信じてきた常識がガラガラと崩れていくのを感じた。 

「なにが、私が悲しいからだよ」

 彼の意味の分からないいじめとパワハラで、博史の方が自殺しそうになった。言っていることとやっているのことの整合性がまったくとれていなかった。

 あんな人間だったなんて――。自分が尊敬し、人生で唯一救いを感じていた人間。それが、あんな最低の人間だったなんて・・。帰り道、博史はショックで、絶望に押しつぶされてしまいそうだった。今まで信じてきた精神的な支柱も博史は、絶望的な形で失った。

 博史は、もう何も、何もかも、偉い人の言葉も、頭のいい人間の理屈も、立派な学歴や肩書も、これからは一切信じないと心に誓った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る