第3話 抑鬱

 博史が朝目覚めて、いつもまず感じるのは堪らない絶望感だった。目覚めたこの現実が夢であってほしいと、毎日目覚める度に博史は思った。

 博史が起きようとすると、目は覚めているのにもかかわらず体が動かなかった。というか動こうとしなかった。博史の意志に逆らい、体が動くことを拒否していた。体は正直だった。しかし、起きないわけにはいかなかった。

 そんな重たい体を引きずるようにして、毎日、博史は自転車で三十分の距離にある、この町の複合福祉士施設のしあわせの村に出勤していた。

 行きは下りが長く楽ではあるが、ただでさえ憂鬱で慌ただしい朝。五分でも十分でも貴重な時間帯だった。しかし、この職場には、なぜか始業の三十分前には来ていなければならないという謎のルールがあった。三十分前に来たからといって何かやることがあるわけでもなく、朝礼は一分で終わった。その後は、ただひたすらむさくるしい男たちが雁首揃えて、殺伐とした空気の中、会話に花を咲かせるわけでもなく、ただ黙って、何するでもなく沈鬱に始業を待つだけだった。この堪らない鬱々とした時間に漂うこの空気感だけでも、相当な苦痛だった。なぜ、こんなことをさせられているのか博史は意味が分からなかった。だが、この職場のルールである以上従わざる負えなかった。

 それに対して少しでも抵抗しようと、博史は三十分前ギリギリにいつも出勤するのだが、それすらも、他の年上の年配の人間がもっと早く来ているのだからお前ももっと早く来いと言われてしまう始末だった。それだと三十分どころか四十分前になってしまう。さらに、山崎は始業の一時間前に来て、誰に頼まれたわけでもなく、仕事用の車を勝手に掃除するということをしていて、そのこともベテランの警備員たちにチクチクと言われるのだった。

「一番年上の人が一番早くに来てあんなことをしているんだぞ」

 偉そうに主任ベテラン警備員の魚崎が言う。

「はい・・」

 博史は、なんとか返事はするが怒りと不満でいっぱいだった。

 なぜ、こんなおかしな謎のルールができたのか。多分、事務所とは別に実質的にこの現場を取り仕切っている勤続何十年という魚崎たちベテラン警備員のじいさんたちが、思いつきと勝手な価値観で勝手に作ったのだろう。知性も理性もないただ年だけを重ねたそんな人間の支配する世界。その訳の分からない昭和の感覚が、この職場の恐ろし過ぎるほどの殺伐とした空気そのものの正体だった。


「君は若いんだから、もっと他にちゃんとした仕事あるだろ」

 山崎が言った。

「こんなのはおじん仕事だぞ」

「・・・」

 山崎はよくこの話を博史にした。

 時代の違いと社会の急速な変化を山崎はまったく理解していなかった。山崎の時代は高度経済成長に向かう時代。しかも、丁度学生運動盛んなりし頃で警察官の増員が急務だった。そこに山崎はうまく乗れた。山崎は高校こそ卒業しているものの大した学歴はない。しかも、当時別の仕事をしていて、中途採用だった。今なら絶対にありえない。

 一方今は、派遣法が改正され、非正規が増え、正規の仕事は高い倍率の競争になる。大卒でさえも正社員になるのは難しい時代だった。まして公務員はさらに人気がありさらなる倍率になる。しかも、熾烈な競争に勝ち抜き、正社員になれたとしても、ブラック企業、ブラック労働が今の時代当たり前で、その中で使いつぶされ、心身を壊し、病気になる人間も多かった。山崎の時代のように高度経済成長からバブルといった正社員で引く手あまたという時代ではない。このおじん仕事でさえも、学歴や健康にハンデのある博史にとっては貴重なものだった。ここにしがみつくだけで博史は必死だった。ここから上など、望むべくもなかった。

 しかし、こんなことを言っても山崎は理解できないだろう。人間はどうしても自分の経験や原体験でしか他人や社会を見れないものだからだ。そのことを嫌というほど博史は経験してきていた。だから、博史は他人に自分を理解してもらえるとは思っていなかった。そこは大分昔に諦めていた。だから、山崎に対して、自分の意見を言うことはなかった。

 今日も仕事が終わると博史はそそくさと帰る。今日も七時間仕事だった。

 仕事からの帰り道、それは、辛い毎日の中で、ふと、少しだけ幸せを感じる、気分の高揚する瞬間だった。辛い仕事から、ふっと解放される瞬間。決して、健全とは言えない疲労感だったが、それでも、その感覚は心地よかった。

 博史は高揚した気持ちで自転車をこいだ。

「・・・」

 ふと見ると、下校途中の小学生の女の子二人が博史を見て笑っていた。また、一人妄想の世界に入り込み、独り言を言ってしまっていたのだろう。妄想の世界での会話が口の動きに出てしまう。それを最近は抑えられなくなっていた。特に気分が高揚した時など、それが抑えられなかった。

 今飲んでいる薬は耐性ができ、あまり効かなくなっていた。しかし、新しい薬にするには、お金もかかる。そして、強い薬にすれば、その副作用も必然的に強くなる。だから、博史は今のまま古い薬を飲み続けていた。精神疾患の患者には、医療費を減額する制度があり、それによって大分負担は軽減されていたが、それでも、今の博史の収入から月数千円でも、取られるのは辛かった。

 思春期に入り、いつの頃からか、真っ黒い暗澹とした不安が博史の背後を覆い、張りつくようになっていた。皮膚の内側を這い蠢くような不安。それに耐えられなくなって、博史は学校に行けなくなる。そして、結局、そのまま不登校の末、高校を退学。妄想性の不安。統合失調症の初期症状の一つだった。そこから博史の病気との日々が始まる。

 漠然とした不安、苛立ち、被害妄想、希死念慮――。

 自宅に引きこもり、病気と闘いながら、しかし、何とか社会にまた出ようと博史はもがく。

 しかし、精神疾患があり、高校を中退。学歴のない、そして、若さと健康すらも失いかけている男には、今のこの熾烈な競争格差社会は露骨に過酷だった。その後、何度もなんとか社会に出て適応しようと、博史は仕事を探す。が、見つかるのは、人のやりたがらない過酷な仕事か、危険な仕事、何か人間関係や上司に問題のある定着率の悪い職場といったような仕事しか見つからなかった。当然、そんな職場は普通の人間でも、続けるのは難しい。それを精神疾患を患う博史が続くわけもなかった。続くどころか余計に精神と肉体を痛め、自信を失い、より生きにくくなっていった。

「ただいま」

「お帰り、お風呂湧いてるよ」

「うん」

 博史は風呂に入るが、リラックスできるそんな場所でも、あの少女たちの自分を笑う顔が浮かび、堪らない不安と屈辱に博史は苦しむ。辛かった。その辛さがさらにどんどん膨れ上がり、とまることなくどこまでもどこまでも膨張していく。これも病気の症状だった。そして、こういう辛い心境の時は、さらに嫌な妄想が湧き上がって来る。

「母が死んでしまったら・・」

 博史の母ももういい年だった。それに大きな病気もしている。

 そして、長生きしたとしても母もいずれは、介護が必要になる。その時、自分はどうすればいいのか。お金はない。働きながら介護などできるはずもない。ただでさえ腰を痛めている。体調も悪い。以前仕事を探している時、介護の仕事を職安の人に勧められた。博史もいいと思った。仕事はきつく、不人気な業種ではあったが、正社員でボーナスもある。しかし、腰痛が悪化し、その話は断念せざる負えなかった。

 母が死んでしまったら、自分は一人になってしまう・・。堪らない不安が博史を襲い、世界が真っ暗になる。先のことを考えると、いつも不安で不安で堪らなくなる。でも、考えずにはおれなかった。自分で自分を追い込みながら博史は一人苦悩した。

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