第4話 格差と嘲笑

 もともとあった抑うつ感が最近は特に酷かった。日中でもスイッチが切れたみたいに、突然、気力とやる気が落ちる。仕事だけでなく、人と話をすることや、ただ立っているだけですらがしんどい日もあった。

「こらっ、お前何やってんだ」

 また、博史のトランシーバーのイヤホンから佐久間の怒鳴り声が響いた。その怒鳴り声は博史の弱った心には堪らなく辛く響いた。自分が怒られているわけではないのだが、それは、それと同等に博史の心にはストレスとして響いた。

「ていうか仮面ライダーって何代目だ?」

 話し好きの山崎が博史を見た。勤務中だが、山崎は、その衝動を抑えきれず、同じポジションに立つ時はよく博史に話しかけてくる。基本的に施設内の小さな横断歩道での立ち番の時は、車もほとんど来ることもなく警備員はほとんど立っているだけの状態で暇だった。

「・・・」

 そう言われると博史も分からなかった。博史が幼い子どもの頃からだから三十年以上は経っている。その間に、多種多様な様々なライダーが出て来ては、引退していった。子どもの頃は仮面ライダーの大ファンで、そういったことに関心のあった博史も、今はもう、今の仮面ライダーが何代目のライダーか分からなくなっていた。

「ライダーも直接悪の組織に突っ込んで行って全部一遍に倒しちまえばいいのにな」

「さすがにそれはできないんじゃないですか。ライダーでも」

「そうなのか」

「多分そうでしょ」

 下らない話をしているなと思いながら博史は答えた。でも、こういうバカ話が一番気が紛れて楽だった。

 その日のお昼休み、どこかへお昼を食べに行くのだろう、この福祉施設事務所の若い女の子が二人連れだって、同じく昼休憩に向かう博史の横を通り過ぎて行った。博史よりも一回りくらい下、二十代前半くらいに見える女の子たちだった。そのすれ違いざまに、その子たちは博史を意味ありげにチラリと見て、何とも言えない笑みを浮かべ合い、笑った。何かを含んだようなバカにするような笑い方だった。

「・・・」

 博史は慄然とする。

 彼女たちはこの複合福祉施設の社員だった。なぜ、その彼女たちが博史を見て笑ったのかは分からなかった。しかし、博史は堪らない屈辱感を感じた。そして、今の自分が堪らなく恥ずかしく惨めに思えた。

 この施設の中には様々な業種や人材がおり、その中での格差も露骨にあった。

 その中でも、博史は最下層のバイト警備員。

「・・・」

 博史は、彼女たちのその残酷な笑いの中に、堪らない劣等感と屈辱感を感じた。

「あの女のケツ最高だな」

 隣りを歩いていた山崎が、その女の子たちの後ろ姿を見ながら下卑た笑みを浮かべ言った。山崎は博史に向けられた嘲笑にはまったく気づいていない様子だった。

「あれはいい。あれはいいオケツだ」

 山崎は制服のタイトなスカートから盛り上がる、左右に揺れながら遠ざかっていく二人のお尻を見つめしきりと感心する。山崎は七十五であるにも関わず隙あれば下ネタを言うようなじいさんだった。七十過ぎてなお自分は今だに現役であることを、自慢げによくひけらかしていた。

「・・・」

 そんな風にして、どこか見下したように女の子を見れる山崎を博史はうらやましいと思った。博史には、絶対にそれはできなかった。博史からすれば見下されるのはいつも自分の方だった。

「お前もいつまでも独身やってないで早く結婚しろよ」

 昼休憩中、飯を食いながら山崎が向かいに座る博史に言った。

「俺がその年にはもう子どもが二人いたぞ」

「・・・」

 博史は黙る。結婚なんて夢のまた夢だった。恋人なんてどこか遠い世界のおとぎ話だった。恋愛なんて顔のいい奴とか社交性のあるイケてる奴らの間でグルグル回っているだけの、博史には全然関係のない遠い別世界だった。

 熾烈を極めるこの社会の競争と格差は人々を大きく分断していた。そして、弱い者たちから順に、関係性や社会から孤立していく。そして、その先に、孤独があった。未婚率は上がり、孤独死は年々増加していた。それが、博史が今生きている社会の現状だった。博史は、まさにその当事者としてその社会の中で生きていた。

 しかし、そんな苦境を訴えても、努力しろ、お前の責任だと、逆に怒られるだけ、声を上げることすらができなかった。

 しかも、まだ子どもや女性、お年寄りは、社会的弱者として認知され、社会の中で共通認識もあるし、社会福祉や支援、民間の支援団体もいる。しかし、博史のような中年男性の弱者は、それらがまったくない。苦境を訴えても、自己責任、努力根性、言われるのはそんな言葉だった。むしろ逆に、情けない、男なんだから泣き言言うな、しっかりしろ、がんばれなどと、説教や叱責をされてしまう。

 そして、収入の安定しない低収入の博史がたとえ奇跡的に結婚できたとしても、その結婚生活を維持など到底できるはずもなかった。

「それ、なんの薬だ?いつも食後飲んでるよな」

 昼食後、博史がいつもの統合失調症の薬を飲んでいると、山崎が目ざとく見つけ、博史に訊いてきた。

「えっ、ああ、これは胃薬ですよ。僕、胃腸が弱いんです。小さい頃から」

 博史が慌てて答える。統合失調症の薬とは絶対に言えなかった。そんなことを言えばここで働けなくなるし、それ以前に、頭のおかしなキチガイとして見られることを、博史は分かり過ぎるくらいに分かっていた。だから、絶対に、自分が統合失調症だということは誰にも言わなかった。

 博史の叔母、母の妹も統合失調症だった。破瓜型と言われる、かなり重度の統合失調症で、独り言をぶつぶつ言ったり、ニタニタ笑ったりといった、いわゆるキチガイと言えば思い浮かぶようなそんなレベルの病状だった。コミュニケーションもほとんど無理なレベルで人格が崩壊し、軽い受け答えくらいしかできなかった。 

 博史が幼い頃同居していたそのおばが近所を歩いている時に、近所の人たちが向ける目を、博史は今でも覚えている。恐れるような蔑むような、バカにするような、何とも言えないそんな目だった。

「キチガイが来たぁ」

 近所の子どもたちは叔母が散歩に出かけると、その姿を露骨に笑ったり、逃げ回ったりしていた。その時の、博史の肩身の狭さと恥ずかしさは今も忘れられない。自分の同居しているおばのことでさえそうである。まして自分が統合失調症などと、死んでも言えなかった。 

「お前も意外とデリケートなんだな」

「ええ、まあ・・」

 博史は目を伏せ気味に答えた。

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