六話:そして、事態は急転する

 いじめ、ネグレクトによる肉体や精神への負荷。

 まるで意味のわからない、不思議な夢。

 それらをかき消してくれるのは、カミサマと過ごすつかの間の平穏。

 カミサマがお守りをくれてから一週間が経過していた。

 どんなことがあっても、胸ポケットにしまった赤いガラス玉を見ていればひどく心が落ち着くのだから、不思議である。

 クラス委員は、あれ以降動きを見せなかった。それはまぁ、数少ない幸運かもしれない。

 とはいえ、あの人は未だに接触してくるけれど。

 それにほら、今だって――。


「神代さん」


 理科室にて。授業が終わるなり、私は先生から手伝いを命じられていた。

 ビーカーや試験管といったガラス製の実験器具を、割らないよう丁重に――しかしさっさと終わらせたいので、手早く片付ける。

 その最中、沈黙を破るように声をかけてきたのは先生の方であった。

 なるべく感情を――嫌だ、という気持ちを表へ出さないようにしながら振り返る。

 彼はおぞましいほど穏やかな笑みを浮かべながら、私を見つめていた。


「聞きたいことがあるんだけれど、いいかな?」

「……なんでしょう」

「最近よく、町外れの小さな神社に行っているよね。隣にいる男は、神代さんの彼氏かなにかかい?」

「え」


 心臓が跳ねる。

 どうして、この人がカミサマのことを知っているの?

 いや、それよりも。

 最近よくって、どういうこと?

 何故、この人が私の動向を知っているの?


「悪いけど、後をつけさせてもらったよ。確かに綺麗な男の人だったね。けれど、神代さんには到底不釣り合いだ。君にあんな男は似合わない」

「……あ、後をつけるって、そんな、……どうして」

「生徒を守るのが先生の役目だろう? 変なところに通い詰めているみたいだから、気になってしまってね。何か悪いことを吹き込まれているのかい?」

「いえ、そんなことは」

「彼にそう言うよう、脅されているのかな? 嘘はつかなくていい。真実を教えてくれないかい?」

「本当、です……本当に私は、自分の意思で、あそこに……」

「じゃぁ洗脳でもされているのかな……。なんだっていい。あんな男は、神代さんには相応しくない。やっぱりさ、君には僕しかいない、と。そう思わないかい?」


 気づいていた。けれど知らないふりしていた。

 だって普通ではない、到底まともな思考回路ではないに決まっている。

 生徒に慕われる先生。裏ではこっそり彼に好意を抱いている女子生徒だって、少なくはない。

 けれど本当は、四十と数年生きてきて、妻子もいるというのに自分より二回りほども下の女に性的欲望を見いだしているだなんて。

 ずっとまとわりつくような視線が気持ち悪いと思っていた。

 だから私は、彼が、B男が嫌いで仕方ないんだ。

 それに、本当に生徒を守るのが役目だというならば、私を地獄から救い出してほしかった。他の同級生と比べても、明らかに痩せ細った身体。習慣のように行われるいじめ。

 それをこの男が知らないわけがなかった。

 全て全て、違和感だって、おかしいって、そう気づいて助けてほしかったのに。

 カミサマだけなんだよ、唯一救い出そうって気持ちを見せてくれたのは。


「神代さん?」

「や、やだ……」


 一歩下がれば、また一歩こちらへと近づいてくる男。

 怖くなって隣の準備室に逃げ込んだけれど、それでも彼は諦めなかった。

 一進一退の攻防は、私が壁際に追い詰められたことにより終わりを迎える。

 男の手が伸びて、私の腕を掴む。ぞわ、と、全身に鳥肌が立った。

 やだやだ嫌だ、気持ち悪い。

 私に触らないで、お願いだから。私に触れていいのは、カミサマただ一人だけなの。

 振り払おうにも力の差は歴然。非力、もはや生きているのが不思議と言っていいほど痩せこけた身体では、まともに抵抗なんて出来やしない。

 顔がぐっと近づいて、欲にまみれた双眸が私を射貫く。何をするつもりなの、私はこれから一体何をされるっていうの。


「ッやめ」

 

 それでもと、ささやかな反抗をしたときだった。

 ガラガラガラ。扉が開いた。

 パサリ。軽くて小さな何か、例えばノートのような物が落下し乾いた音を立てる。

 ひ――、と、か細く絞り出すように放たれた悲鳴。

 

「せんせい……? 何やってるの……?」

 

 そこに立っていたのは――A子だった。

 なぜ、よりにもよってこのタイミングで……間の悪いと言うほかない。

 顔面蒼白の彼女は、膝をカクカク震わせながら私とB男を指さし、ゆっくりと往復させる。


「雉本さんか。これはただの事故だよ。そう、……事故。見苦しいところをお見せしてしまって、すまないね」


 B男はよく理解している。自らの立ち振る舞いにおける、最善の方法を。

 彼はなんでもない、と言ったように私から距離をとるなり、いつもの作り笑いを浮かべる。そして、片付けの続きは自分がやるから、と私に退出を促した。

 ――理科準備室から出るなり腕を掴まれ、すぐ隣の美術室へと放り込まれた。まるで汚物を扱うかのように、乱暴に放り投げる。床に背中を強打したせいか、肋骨付近の背骨が痺れるように痛みを訴えた。

 理不尽に悶えながら起き上がれば、いつもと変わらぬ三人組がこちらを鬼の形相で見下ろしていた。

 

「ねぇ、どういうことなの」

「わ、わからない、先生が、急に……」

「嘘つかないで!!」

 

 震えながら返答すれば、間髪入れずにA子が怒鳴る。彼女は私を指さすと、ヒステリックにわめき散らし始めた。

 

「どうせあんたが何かしたんでしょう!? あんたが、その目で先生を誘惑するからでしょうが!! この化け物!」

 

 ……ああどうして、この人は私の話を聞いてくれないんだろう。

 私は何もしていないのに。私はただ普通に生きているだけなのに。

 どうしてここまで異常なほどにまで憎悪を、歪んだ欲望を向けられなくてはならないのだろうか。


「あんたさえいなければ……先生は、先生は、私の……!」

「う……っ!」


 上履きのまま鳩尾を強く蹴られ、うめき声を上げる。流石の苦痛に耐えられなかった私は、咳き込みながら前屈みに崩れ落ちる。

 ほぼ同時、カラリ、と音を立てて転がる何かがあった。

 私とA子の間で静止する赤い球体は、あの日カミサマがくれたお守り。

 私の心の支え、安寧、精神の安定剤。

 待って、待って、……お願い。

 それはダメだ、それはいけない、それだけはよくない。

 私の思いに反して、彼女はそれを拾い上げた。四方八方からのぞき込み首を傾げる。


「何これ」

「ガラス玉? 綺麗だね。売ったらお金になりそ~」

「……返して、それは……」


 私は明らかに選択を間違えた。

 ここで素直に白状するべきではなかった。

 懇願すれば、それがどんなものであるかなんて、馬鹿でも察しがついてしまうというもの。

 A子は唇の端を吊り上げ、悪魔のような笑みを浮かべる。

 

「へ~。そんなに大事なものなんだぁ」

「待って、やめて――」


 手を伸ばしても届かない。笑ったままの彼女が足を上げ、そして大げさなくらいに地面を踏み抜く。

 パキリ。

 酷く脆く、小さく、繊細な音を立て、あまりにも呆気なく。私の希望は踏みにじられてしまった。

 

「あ、あ――」


 それが引き金になった、とでも言うべきだろうか。瞬間、脳裏には数多の映像が浮かび、泡のように消えていった。

 これは記憶だ。私の記憶。

 いいや、もう一人の、私の中にいると信じてやまなかった”彼女”の記憶。

 私がずっと足りないとヤキモキしていた、喪失感の正体。

 思い出した。思い出した。……思い出して、しまった。

 そうか、そうか……そういうことだったんだ。

 あの夢も、カミサマの言葉の意味も。

 彼はずっとずっと待っていたんだ。いつ生まれ変わって会いに来るかもわからない、”私”のことを。

 カミサマ、カミサマ。私たちずっとずっと一緒だったんだね。

 ひとりぼっちにしてごめんなさい。

 長い間寂しかったよね。

 でももう大丈夫。たった今、あなたが望むものを手に入れたから。

 

 ……そこから先のことは、あまりよく覚えていない。

 どういうわけかA子が被害者となり、私が加害者になっていた。これはとても大きな問題となり、親を呼びつけるまでの事態に発展した。

 すすり泣くA子。眉根を寄せ、こちらを見据える彼女の親。明らかに不機嫌さを隠さない養母、そして私。

 B男は自身に不都合な部分を全て隠蔽した。まるで初めからA子とグルであったかのように説明を行い、私に謝罪を要求し、双方和解に持ち込もうと詭弁を展開する。

 話し合いという名の茶番が終わるなり、養母がなにかを叫び、怒鳴り散らすけれど、正直頭になんて入ってこなかった。

 ああ、よくわからないけれど、何かを喋っているんだな、くらいの感覚で。

 最後に一言、家に戻ったら覚えておけよ、みたいなことを言われた気がする。どうやらいよいよ手を出されるらしいと、直感で理解した。

 けれどもそんな指示に、いちいち答えてあげる必要もない。

 ふらふら、まるで彷徨う魂のごとくおぼつかない私の足取りは、小さな小さな祠へと向いていた。

 主は私の姿を目にするなり、とろけた瞳で訪問者を歓迎する。


「ああ、お前か。今日はずいぶん遅かったじゃないか。頭を撫でてほしいのか? こっちへ来るがいい」

「そうじゃない、そうじゃないんです。ねぇカミサマ。いや……――”クロ”って呼んだ方が、あなたは喜ぶのかな」


 呼びかければ、錦色の双眸がこれでもかと言わんばかりに見開かれる。音もなく目尻から流れ出たのは、一筋の綺麗な雫。


「お前……! 記憶が……!」


 彼の言葉に、私はゆっくり頷いた。

 何度も私の夢に現れては呼びかける男性。その名を”黒砥”といい、前世の私はクロ、と、そう呼んでいた。

 前世――つまりもう一人の私――トウコは、ごく普通の村人だった。愛する家族や婚約者に囲まれ生きていたが、村のため……そしてとある一人の狡猾な女による策略の末、神の供物として捧げられた。

 そこで終わりかと思われたトウコの命は、神様に見初められたことにより続きを手にする。トウコは死ぬその直前まで、神様に愛され幸せな生活を送っていた。

 黒砥の正体、それは神様。カミサマは、本当に神様だったんだ。

 人間と人外。彼は永遠の時を生きる者。だからこそ、私は寿命という制約に抗えなかった。

 『私』は死んだ。黒砥を一人遺して。その時、約束したんだ。

 ――来世で会いましょう。私が生まれ変わって、私のこと、覚えてくれていたら……。また、あなたと共に生きていたいわ。

 これが私に必要だったもの。透子はこのために生まれ、そして今日まで生きてきたんだ。

 ずっとずっと抱えていた喪失感も郷愁も、その正体がようやく明らかになった。

 ならばやるべきことは、ただ一つ。


「ねぇ”カミサマ”。どうか、私の願いを聞いてくれますか?」

「当たり前だろう? お前の願いならば、何でも叶えると言ったはずだ」


 ――この時を待っていた、と言わんばかりに、カミサマは恍惚とした笑みを浮かべた。

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