三話:カミサマ

「お願いします……テストでいい点がとれますように……せめて赤点回避はできますように!」

「帰れ帰れ。お前の願いなど、応える義理もないわ」


 放課後。

 今日も今日とて、日課のように境内へ足を踏み入れる。

 目の前では高校生が祠に向かい頭を下げ、願掛けをしている最中であった。

 それを祠の上から嫌そうに見下し、追い払う動作をする男が一人。ふんぞり返るその様は、鬱陶しいと如実に語っていた。

 すぐ目の前にいるというのに、そんなこと素知らぬ高校生は爽やかな顔をして踵を返す。

 残念ながら、その願いは届いてなさそうだけどね……。当人がすごく嫌そうにしているし。


「全く……。困ったもんだ。そんなに叶えてほしいなら、土産のひとつくらい持ってきたらどうなんだ」

「おじさん、酷いですね……?」

「だからおじさんではない。せめてお兄さんだろう」


 高校生の姿が見えなくなった後、男性に話しかけた。彼は呆れながら地面に降り立ち腕を組む。

 けれども私に向けた声色は、全く冷たいものではなくむしろ優しいまである。


「じゃあ、なんて呼べばいいんですか?」

「……好きにすればよい」


 またこれだ。彼は自分の名前を頑なに教えようとはしなかった。そもそも、名前なんてあるのだろうか。

 そのたびに「ねえ」だの「あの」だので誤魔化してきた言葉は、どうやらそろそろ限界のようだ。呼びやすくて、それでいて覚えやすい。そんな名前をつけるべきだろう。

 何がいいかとしばらく考え込んで、無意識に言葉を口にする。

 

「……カミサマ」


 彼が小さく身体を跳ねさしたのを、私は見逃さなかった。そうしてこちらをのぞき込んでは、無駄に整った綺麗な顔をグイッと近づけてくる。

 ここまで距離が近いのは、あの時抱きしめられて以来だ。美しいものに耐性のない私は、思わず背筋を伸ばす。心臓がドクドク、大きな音を立てて身体が熱を持つのを感じた。


「……その名前は」

「え?」

「いや、なんでもない」

「なんでもないんですか? ……うん、じゃあそう呼ぶことにします。なんかしっくりきました」


 祠に住んでいるし、一部の人間からは崇拝されているらしいし。どこか浮世離れした容姿も相まって、ぴったりだと言えよう。

 カミサマは私から距離をとると、不満げにこちらを見やる。しかし、それを口にすることはしなかった。代わりに顔をほころばせ、私の頭に手を乗せる。

 男性らしい、大きくゴツゴツとした手のひらが優しく私を包み込んでいく。

 栄養不足のせいで、骨の浮くガイコツみたいな手とはまるで大違いだ。


「ここ最近、お前はよく来てくれるな」

「あんなところにいても、苦しいだけなので」


 脳裏に浮かぶのは、開けた瞬間に異臭の漂う空間。

 まともに掃除もされていない部屋にいたって、心がすさんでいくだけだから。学校にだって、居場所はない。だったら、カミサマの隣にいる方が数倍心地よいのである。


「……カミサマ。お願いがあるのですが」

「なんだ、言ってみろ」

「頭、もっと撫でてもらってもいいですか?」

「それくらい、たやすいことだ」


 人に触られるのが好きじゃない。事実、クラス委員に肩を触られたときはすごく不愉快だった。

 けれど今はそんなことない、むしろ今以上にたくさん触ってほしい、とさえ思う。

 カミサマが触れてくれる場所から、どんどんポカポカあたたかくなっていく。心臓も心も温かくなって、どきどき、鼓動が早くなって気分もよくなる。

 こんな不格好でみすぼらしくて、醜い身体でいることが心底恥ずかしい。でもカミサマはそんなこと、気にしなかった。一度聞かれたことがあったけれど、事情をぼかせば何かを察したらしく、それ以上は踏み込んでこなかった。

 誰かに頭を撫でてもらうなんて、甘やかしてもらえるのなんて、実の両親を除けば初めてのこと。

 それでも、この感覚は――。


「やっぱり、懐かしい気がします」

「そうだろうな」

「あれ、私、声に出てました?」

「ああ」

「……カミサマ、私のこと知っているんですか?」

「さぁ、どうだろうな。仮にそうだったとしても……俺は、お前に思い出してほしいからな」

「それって、教えてくれないってことですか?」

「そういうことだ」

「意地悪ですね」

「気まぐれと言ってくれ」

「なんですか、それ」


 思わず笑みがこぼれて、そこではたと気づく。

 私、今みたいに笑えたのっていつ以来だろう。もう全く意識することもなくて、笑えるような日々でもないから、忘れてしまった。それはもう、ずいぶん遠い昔のことにさえ思える。


「カミサマ。膝、貸してください」

「よかろう」


 もっと甘えてみたくなった。だから試しに膝枕をお願いしてみれば、あっさりと許可が下りたので少々拍子抜けだ。

 ポンポン叩かれたそこにゆっくり頭を預ければ、堅い感触が伝わってくる。意外と、鍛えているのかな。そういえば、私を抱きしめてくれたときの腕はすごく逞しかったことを思い出した。


「ふふ、カミサマ。……カミサマ」

「どうした?」

「なんでもないです。呼んでみただけですよ」

「……はは、変わらないな、お前は」


 そうして彼岸にも似た深紅の瞳を細め、私に穏やかな視線を向ける。

 けれど、どこか悲しそうに呟くカミサマの言葉が、いやに頭に残っていた。

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