一話:普通じゃない私

『なぁ、いつになったら思い出してくれるんだ。俺は待ちくたびれたぞ。もう何度だって呼びかけているだろう。……聞こえていないのか、理解できないのか。どちらだっていい……、これは、お前の願ったことだ』

『お前の気が向くまで、俺はいつだって待つことにしよう』

『あぁけれど、お前にその気がないのなら――』


 ずっとずっと脳内に反芻しているのは、見知らぬ男性の声。

 どこかで聞いたような気もするけれど……わからない。心当たりがない……えぇと、どこで聞いたんだっけ?

 現実ではない、少なくとも夢の中。

 けれど私は、この人を知らない。

 何かを訴えるように、叫ぶように呼びかけてくる男の人を――。


「――あははははッ! 見事に引っかかってやんの!」


 小さな空間に響いた、耳障りな甲高い嘲笑で、ハッと我に返る。

 ここは……中学校の教室。私のクラス。

 そうだ確か、下校前に職員室に寄るよう言われたんだっけ。

 担任の先生と少しお話しして、荷物を取りに教室へ戻る。扉を開ければ待ってましたと言わんばかりに、黒板消しが脳天を直撃した。

 こんなにもわかりやすい罠をも見抜けなかった私は、大量の粉を被ってしまう。

 視界は不明瞭となる上、息を吸い込めばチョークの残骸が肺へと入り込む。嗅覚を鈍らせるような独特の臭いにむせ、咳き込んだ。

 声の主を見やれば、下賤な笑みを浮かべながらこちらを見やる複数の女子生徒がいた。彼女らは三人で私を取り囲み、まるで汚物を見るような視線を向ける。

 鮮やかな茶髪を肩口で切りそろえた、リーダー格の彼女がこちらを指さしトゲを刺すべく口を開いた。


「見事に真っ白だね~。小麦粉みたいで、豚子≪とんこ≫ちゃんにはお似合いだよ~?」


 私には神代≪かみしろ≫透子≪とうこ≫という立派な名前があるにも関わらず、これはあまりにも酷い言い草ではなかろうか。

 私はいじめられていた。

 きっかけなんてものは、些細なもの。

 ナントカちゃんの好きな人がナントカくんで、そのナントカくんは私が好き。

 ナントカ――A子とB男と呼ぶことにしよう。

 A子は誰にでも優しいB男を盲目的に慕う。その優しさが義務感からくるものであったとしても、溺れた彼女は目を覚ませない。

 B男の好意は、しかしはっきりしたものではないからわからない。なんとなく他の人と接し方が違うなって、その程度。仮に下心であればそれは悪いことだし、なにより迷惑極まりない。

 よくある論争、くだらない諍い。

 嫉妬深くて意地の悪い、それでいて小賢しいA子。彼女は即座に私へ目をつけクラスで孤立するよう仕向けた。

 あることないこと噂を流布し、印象操作で好感度を下げる。

 その噂は、私のとある性質のせいで、いとも簡単に信じられてしまった。

 せっかく友人と呼べるような人もいたのに、標的になるのを恐れ皆敬遠していった。おかげさまで、今やひとりぼっちである。

 石灰のせいで目が潤む。前がよく見えない。

 そんな生理現象すら気に食わないA子は、忌々しそうに舌を打ちこちらを一層鋭く睨んだ。


「マジでむかつく……。”化け物”のくせに。それ、責任持って片付けといてよね」

「な、なんで私が?」

「はぁ? それくらいやっといてよ」

「うちら、部活行くからー」

「え、そんな……」


 どうやら後始末までもが私の仕事らしい。A子ご一行は不愉快な笑い声をなおも響かせたまま、姿を消してしまった。

 教室には……見事に誰もいない。まあいたところで、助けてくれるわけでもない。だったら、最初からいない方がいいか。

 どうして私ばかりがこんな目にばかり遭っているんだろう。

 けれどまぁ、なんとも馬鹿らしい。

 悲観的になる側面でほとほと呆れかえる。

 そう思えど仕返さないのは、面倒でしかないから。行動に移したところで、何かが変わるわけでもない。

 それこそ、神がかりな力がない限りは。

 ……なんて、ただの妄想でしかないんだけれどね。

 ありもしないことをかき消すように、頭を振ってため息をつく。

 制服にかかった粉を払い、ホウキとちりとりを手に清掃を始めた。


--------------


「あの子は普通の子じゃないわ」

「あの子の目……。きっと悪魔か何かの生まれ変わりよ」

「あの子は頭がおかしいから、関わってはいけないよ」


 物心ついたときから、陰でヒソヒソささやかれていた言葉。

 親戚、友人の両親、近所の人たち。関わった人は大半、異口同音に言い放つ。

 どうやら私は普通ではないらしい。

 というのも、私は昔から、この世界に違和感を覚えていた。

 理由はよくわからない。

 それは例えば、この町並みがもっと自然豊かだった頃の光景を鮮明に思い出せるだとか、車や電気が通っていなかった頃の生活を知っている、だとか。

 知らない男性が私に向かって何かを訴えかける夢を、繰り返し見るだとか。

 この体と記憶が自分だけのものではないような、なんとなくそんな気がしていた。

 確たる証拠はない。漠然とした違和感と、大切な何かが欠如しているような喪失感。

 それらがずっと、モヤモヤと心の内で燻り続けていた。

 言葉を自在に扱えるようになった頃、それを周囲に打ち明けてみたことがあった。

 そうしてどうなったか。

 結果は見ての通り。噂話が驚異的な速さで出回る田舎であったことも、災いした。

 加えて、血液のごとく赤く染まった目。生まれたときから、私は赤い瞳を持っていたのだという。

 

 そうして、ついたあだ名が”化け物”。

 

 人間らしからぬ私のことを、実の両親はたくさん愛してくれた。

 他の人に何言われたって、彼らだけはずっとずっと私の味方だった。

 私という存在を、諦めることは決してしなかった。

 それは親になった義務感から来るものか、それとも本当に打算のない好意で接してくれていたか。

 確かめる術は、今となってはもう存在しない。

 彼らは私が小学生の頃、揃って事故で亡くなった。

 親戚はいたけど、私を引き取ることには難色を示す。

 里親にと立候補した家は今もお世話になるものの、これが酷いと言うほかない。

 義母が夜な夜な遊び歩くものなら、義父とくればロクデナシ。仕事もせずに町中をプラプラとしている、早い話がネグレクト。

 二人とも時折家へ帰り、未だ生きている私を見ては舌を打ちまた夜の町へと戻る。

 彼らはお金目当てであった。普通であれば死にそうなところをなんとか耐えきり、今日の今日までを生きている。

 素性に難あり、家庭環境は異常。そうとくれば、学校生活だってまともに送れない。

 

 A子たちに命じられた掃除を終えた私は、帰路についていた。

 騒音を鳴らし行き交う車、公園で遊ぶ子供の笑い声、散歩中の犬の足音。

 代わり映えしない、中途半端に栄えた道を一人歩く。

 いつもならば真っ直ぐ家へと帰るのに、その日はどうしてか寄り道をしてみたくなった。

 それはまるで、何かに導かれるかのように。

 やがて訪れたのは、町外れの小さな神社。家やお店が乱立したあの場所からは打って変わって、草木生い茂る自然豊かな場所だった。

 その先にあった寂れた祠。足跡があるから誰かが訪れているようだが、手入れ自体はされていないらしい。苔むした殿舎と石造りの鳥居以外には、まるで何もない。

 鳥居の前で足を止め、ひっそり佇む神の住まいを凝視する。

 何故だろう。初めて来たはずなのに、懐かしい気さえするのはどういうことか。

 それどころか、ここが私の居場所であるような、そんな気さえして――。


「人間、何用だ」


 すぐ後ろから声がした。

 バリトンの心地よい、ゆったりとした声色。

 すり切れた心を優しく包み込んで、癒やしてくれるような音色であるものの――しかし、簡単に心を許すことはせず、許可なく近づく者全てを斬り伏せてしまいそうな攻撃性を孕んでいる。

 慎重に振り返れば、男が一人立っていた。

 黒の着物に黒い袴。艶やかな烏の濡れ羽色を腰まで伸ばし、燃えさかる炎のような深紅の瞳でこちらを見据える。どこまでも人間離れした風貌を持つ、絶世の美ともいえる細身の男だった。

 こんな場所に人が? いや、それよりも――。

 憤怒に顔を歪めていた美丈夫は、私を見るなり血相を変える。


「××!」


 何かを叫んだ。誰かの名前のようにも聞こえたけれど、肝心な部分はノイズがかったように雑音でまみれてしまう。

 彼がこちら手を伸ばす。細くも筋肉質な腕が私を包み込み、引き寄せた。

 いい匂いがした。お香にも似た、ふんわりと優しい香り。けれど少しばかり煙たいような芳香を吸い込めば、腕に込められた力がより一層強くなる。


「――、お前か。ようやく、……ようやく、俺の元へ帰ってきてくれたのだな」

「え?」

「この目、間違いない。なあ聞いてくれ。お前がこの世を去って、二百年後のことだ。やっと俺たちが一緒にいられる方法を見つけたんだ」

「ええと、言ってる意味がよく、わからないんですけれども……」


 噛みしめるように、そして今にも泣き出しそうな態度に首を傾げる。

 だって、本当に知らないんだ、こんな人。

 私と彼は初対面だ。こんな人間離れした存在、一度目にしたら忘れる方が難しいだろう。

 その上、ここへは初めて訪れた。そのはずなのに――。

 そうだ。こんな場所に人がいることが問題なのではない。

 何故、酷く懐かしいと思うのだろう。

 何故こんなにも心が安らぐのだろう。

 腕が緩む。視線がかち合う。彼岸花のごとき緋色は私を目にして、安堵と歓喜と失望を一緒くたにした色を浮かべた。

 大きな手が伸びて、私の頭へ乗る。ゆっくりと、壊れ物を扱うような優しい手つきで撫でられた。


「可哀想に、記憶が混乱しているんだな。……急がずともよい。ゆっくり時間をかけて、そして俺のことを思い出してくれたら、それでいい」

「ええと……?」


 首を捻り、されるがままの私を見て彼は満足げな笑みを浮かべる。

 ……本当にわけがわからない。

 髪がぐしゃぐしゃになるからと、なおも頭上で暴れ回る手首を掴む。

 まさか制止されるなんて思ってもいなかったのか、呆けたように形のよい口が開かれた。

 そんな彼に、とある提案を持ちかける。


「私、あなたなんて知りません。けれど今、抱きしめられても、不愉快には思わなかった……。ねえ、あなたはいつもここに?」

「ああ。お前が来てくれるのならば、俺はずっとここにいる」

「う、うーん? そうなんだ。じゃあ、明日から時間のあるときお邪魔します。そうしたら、あなたの言葉の意味がわかるかもしれない」


 ふと思う。私の幼い頃から抱いていた喪失感は、彼と何か関係があるんじゃないかって。

 勘違いかもしれないけれど。それならそれで構わない。

 男は目を細め、わかりにくいほど微細に口角を吊り上げる。

 ――綺麗に笑う人だな、と思った。その顔を見ていると、何故だか胸が高鳴るので不思議で仕方ない。

 同時に心臓がきゅぅっと締め付けられる感じがしたのは、きっと気のせいだろう。

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