ラスト・ヴァルキリー 18話
すう、すう、と寝息が暗く広い室内に微かに響く。海の中を浮かび、弾ける泡のように。
その主たる人物は、平均より少しばかり背の低い、見ようによっては少年のようにも見える男性。斬れ味がありつつもどことなく幼さを残したような中性的な容姿をした彼は、大きな乱れたベッドの上にて産まれたままの姿で布団に身を包み、1人目を閉じて泡沫の夢に身を委ねていた。
よくよく見てみれば、彼の身体には方々に赤い花が咲いていた。朝顔のように一つの繋がった花弁で出来たそれは、実際に花に包まれている訳ではなく、浅く色付いた肌からでも目立つ模様のようなものだと理解できた。
その正体は、肌の下の毛細血管が切れて内出血を起こした跡だ。普通、魔人の頑強な肉体では簡単にはこういった跡は付かない。それこそ、意図的なものでない限りは。
そう、これは意図して付けられたものだった。
これは、所有の証だ。猫がお気に入りの物や人に匂いを擦り付けるように。狼が遠吠えで己の縄張りを誇示するように。この男は私のモノだ、手を出せば只では済まさない、と彼に近付く身の程知らずの雌達に知らしめる為のマーキングだった。
そして、それが全身にくまなく付けられている有様は、赤い花々を植えた花壇の主が貪るように、叩きつけるように、激しく彼を愛したのだと示唆していた。
そんな、恐らくは疲労困憊して眠りについたのであろう彼を置いて、件の主は何をしているのか。その答えは、部屋の奥から聞こえてくる水音が教えてくれていた。
音が聞こえてくる源泉、つまりは風呂場であるが、そこの半透明の戸から見える影は、彼女が女性はおろか男性の平均すらも遥かに超える長躯の持ち主であることを見る者に理解させた。
更によくよく見てみると、彼女の肢体は筋肉質でそれでいて無駄のない、肉食獣を思わせるものであるということも分かる。男も決して身体付きは貧相ではないが、彼女の見事な体格には劣るだろう。
やがて、水音が何かをひねるような、或いは擦れるような音と共に止む。それから少し遅れて戸が開く音、更にそこから遅れて布と何かを擦り合わせる音、最後にバチバチと電気が小さく弾ける音が聞こえてきた。それでも、男は余程疲れていたのか、起きる気配を見せない。
そして、電流の音が聞こえなくなった後、風呂場の方から白色のバスローブを身に纏った1人分の人影がぬっとベッドのある部屋に現れた。
月光のような銀色の髪。透き通るようで何処となく攻撃的な琥珀色の瞳。そして、血管が透けて赤らんだ白い肌。それらが織りなす美は、どんな衣も引き立て役に甘んじさせることだろう。彼女、皇国第二皇女のコハクの前では。
コハクの瞳が男の、哀れな被捕食者たるアオ・カザマの寝顔を捉え、慈愛と情欲の入り混じった湿度の高いものとなる。つい先程まで散々に食い散らかしていたというのに、彼女の肉欲はもう空腹を訴え始めているようだった。まるで、食えば食うほどになお飢える虎狼のように。
とはいえ、流石の彼女もぐっすりと眠りについているアオを叩き起こしてまぐわいを再開するほどに自分本位では無かったようで、ベッドの縁に腰掛けて優しくアオの黒髪を撫でていた。その場面だけを切り出せば恋人同士の一幕そのものなのだが、残念ながら2人の関係はもっと不健全で爛れたものだった。
空いた手で不意に自身の腹をバスローブ越しに摩り始めるコハク。そこは、愛しい男の精を何度も受け止めた胎が内に納まる場所だ。恐らくは、もっと欲しいもっと寄越せ、と疼いているのだろう。
コハクはアオとの交合において、避妊というものを殆どしていない。というか、意識すらしていない。今の所授かった様子は無いが、子を孕むことをまるで躊躇っていないようだった。それは、純血主義の皇族では最大級に忌避される事だというのに。
ぐつぐつとした情欲が高まるのに反して、穏やかな時間が過ぎてゆく。アオの絶叫に等しい喘ぎが部屋中に衝突していた時とは対照的に、今は時計の針が進むのが聞こえて来るほどに静かだった。
だが、静かな時というのはいつまでもは続かないものだ。やがて、寝息が徐々に早くなり、普通の呼吸と差がない程にまで間隔が短くなった。そして、寝返りを一つ打つなり、閉じられていたアオの瞼がぐっと開けられた。
「………ん、ん〜………コハク、さん?」
「起きたか、アオ。可愛い寝顔だったぞ」
「なんで………あ」
なんでそんな格好を。そう言おうとして、自身の格好に気が付いたのだろう。昼から夜まで激しく続いた行為のことが彼の脳内で再生されてゆく。それと同時に、一気に顔に血が集まり、紅葉の如く赤く色付いていった。
「ふふ、そう恥ずかしがることもあるまい。何度も経験した事だろうに………いつまでも初々しい奴だな、お前は」
「………恥ずかしくない訳がないでしょう。ずっと貴女にあちこち舐め回されたのを思い出したら………」
布団に潜り込むようにして羞恥からの赤ら顔を隠すアオの姿は、コハクにとってはたまらなく愛らしく、そしていじらしく思えたようだ。元より高まっていた情欲が、より一層強火で燃え上がっている様子だった。ヨンゴクへと帰還するのが今日でなければ、今頃もう一戦が始まっていたことだろう。
「もっと他に思い出す事があると思うのだが………そんなにコレを付けられるのが気に入ったか?随分な好き者だな。生憎だが、私にも予定がある故、これ以上は可愛がってやれん」
「そんなのじゃないですよ……!身体中吸い付かれるなんて、そんな事されたら嫌でも印象に残るってだけです」
「ふふっ、そうかそうか………なら、大事に残しておけ。消えた頃にまた付けに来てやる」
囁くようならその言葉に、アオの身体が跳ねる。それは果たして意思に反した反射的なものだったのか、それとも彼の中に確かな期待があったのか。
「っっ………!さ、最低ですよ……本当にっ………!大体、貴女そんなに暇じゃないでしょう。ずっと思ってましたけど、こんなしょっちゅう来て大丈夫なんですか?」
「大丈夫ではない。普通ならな。だが、お前に会う為だ。今まで通り、無理にでも予定を作ってやるさ」
「なっ……あ、貴女という人は………!」
アオの為ならば労苦を惜しまない。こうも直球な愛の表明を受けて、恥ずかしく思わない者はそうそういまい。アオ自身もそれは例外ではなく、どこか嬉しさを覚えている自身に悔しさを感じつつも、身を焦がすような羞恥に染められていた。
そんなアオの様子の一々を可愛らしいと思い、後ろ髪を引かれるような思いを抱きながらも、コハクはベッドから立ち上がり、散らばった服を拾い上げながら替えの服の納まったクローゼットの方へと向かって行った。
そして、せめて自身の産まれたままの姿を余さず見せつけようと、彼の方を向きながらゆっくりと着替えを始めた。
スルスルと布の擦れる音が聞こえてくる中、暫く沈黙していたアオは、自らの中の燃え上がる感情を誤魔化すように、ゆっくりとその口を開いた。
「あの………聞いても?」
「なんだ、アオ。言ってみろ」
「………今回の依頼、恐らくはロスヴァイセのヴァルキリーも出ますよね。協業になるんですか?」
ロスヴァイセ。皇国が3つ保有するヴァルキリーの中の一機であり、そしてホワイトファングの中に、その担い手は存在していた。
今回の任務ではホワイトファングの麾下にて動くという。ならば、ヴァルキリーの一人とも共に行動することになるのではないか。そう考えたのだ。
「シャガ・コチョウか?ミネの所の。ああ、今回の作戦では、最も活動の大きいオオヒラにお前を派遣するが、奴もそこが任務地だ。私はランと共にカミドへ向かうが……それがどうした?」
「………だとしたら、随分と戦力を集中するんですね。いや、戦力集中の原則というものは確かにありますが、これは些か過剰なのでは?」
ヴァルキリーとはそれ単体で戦局の要足り得る存在であり、同時に生身でも魔人の中でも際立った戦闘力を有する存在でもある。幾ら機人の戦乙女を使うことは無いとはいえ、それをレジスタンスの一拠点襲撃に2人も集中させるというのはアオの言う通り過剰戦力と言わざるを得なかった。
更に言えば、ホワイトファングの隊長はヴァルキリーを持たない事を除けば、それに匹敵する力を持つとも噂されている。それも加味すれば益々といった所だろう。
だが、何もこれは作戦を立案した軍部がコイントスで配分を決めた訳ではないし、コハクの私情で決まったわけでもない。とある事情と懸念があっての事だった。
「………お前、帝国における大侵攻の連続をどう思っている?」
「どう、とは………」
「余りにも不自然だとは思わないか?大侵攻がああも立て続けに、それもヤシマという土地の中で連続して、などという事が自然に起こるとはとても思えん」
その言葉に、円卓会議での事がアオの脳裏に蘇る。解放戦線の活動が確認された場所と怪獣災害発生地域の奇妙な一致。それも場所だけでなく、時間も近いという。よもや皇国もその事を掴んでいたのかと、アオは思わず身構えた。
「………何者かの意図がある、と?」
「さあな。だが、まるでそれに連動するかのようなタイミングで、こちらのレジスタンスが妙な動きを見せている………飛躍が過ぎると言えばそうなのだろうが、用心するに越したことはない。私の直感がそう言っているのさ」
どうやら、皇国とてそこまで踏み込んだ情報を持っているわけではなかったらしい。だが、用心はし過ぎるという事はないというのは、アオも同意見だった。
「…………そうですね。願わくば、その直感が外れてくれる事を祈りますが」
「ああ。特にお前は、帝国で大きな事件に巻き込まれている。二度ある事は三度あると言うからな。気を付けろよ」
「三度目の正直とも言いますよ………そちらこそ、お気を付けて」
アオからの安全を願う言葉。それにコハクは、少しの間ぽかんと惚けたような顔になり、それからにいっと不敵そうな笑みに顔を塗り替えた。
「…………ふふ、有り難う。私にはこの上ない守護となりそうだ」
名残惜しそうにゆっくりと最後のボタンを掛け終え、残った乱れて汚れた服も鞄に詰め込んだコハクは、最後に未だベッドの中にいるアオに歩み寄ると、顎をくいと持ち上げてそのまま唇を軽く重ねた。アオも驚きこそすれども抵抗は無く、目を閉じてそれを受け入れていた。
「っは………いかんな。お前はまるで麻薬だ。もう少し、もう少しと求めて、気が付けば貪りたくなっている………本当に、もう一日も居られないのが惜しい」
「……もう一日いても同じことを言っているでしょう、貴女は。ほら、早く行ってください。このままだと永遠に帰れませんよ」
「そうだな。それも魅力的だが………私もやるべき事があるし、ランからの小言は御免だ」
一体自分の何がそんなにいいのだろう。そんな事を思いながら、アオはやんわりとコハクの肩を押して送り出した。そして、彼女は本当に残念といった表情を貼り付けながら、その力に従って扉の方までゆっくりと歩んで行った。
「ではな、アオ。また来るぞ。それまで、浮気はせず待っていろ」
「だから付き合ってないでしょうって。次はせめて、もっといい口説き文句を用意して来て下さいね」
「そうだな、洒落た文の一つも考えてくるとするさ。お前が私の元に自ら伴侶として来たくなるような、な」
「っ、もう!いいから早く行ってください!!」
そう赤面して怒鳴るアオを愛でるようにくっくっと笑いながら、今度こそコハクは扉の向こうへと消えていった。
それを見届けたアオは、はぁーっと長い長いため息をつきながら、自分が情け無いといったふうに嘆いた。
「…………どうすればいいんだろうな、僕は」
それは、未だ心を決めきれない自分に対する嘆きだった。
コハクのことを愛しているのかは分からない。だが、憎からず思っているのは確か。その曖昧さ故に、アオは自らの身の振りように苦悩していた。
きっと自分は、コハクとリンや方舟を天秤にかければ、ひどく迷いながらもリンと方舟を選ぶのだろうと、アオはそう考えていた。だからこそ、自分がコハクとこうして関係を持ち続ける事に不誠実さを感じていた。だがそれと同時に、コハクとのこうした関わりを内心で不快には思っていない事もまた事実だった。
それにきっと関係を断とうとしたとて、コハクは決して諦めないだろう。それどころか、自分を手に入れるために彼女はタガの外れた事をしてしまうだろう。そういう確信めいた直感もアオの中に存在していた。その、ある種の恐怖もまた、アオの心を縛りつける鎖の一つだった。
アオは、自分がどうすればいいのか分からなかった。
かつての言葉が、そして最近夢に見た言葉が、アオの中で蘇る。
「………貴女はある意味で正しかった。大人になる、って本当に大変なんですね。でも………」
そう、ここにいない誰かに語りかけながら、アオは自分の胸にある傷跡を、すうっと撫でた。
「………逃げはしませんよ。いずれ必ず、答えは出します。貴女がくれて、自分で選んだ未来ですから」
それは誰にも届くことはなく、暗くどこか寂しい部屋の中で静かに消えていった。
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