忘却

第17話

目を覚ました時、外は真っ暗になっていた。

 窓ガラスがガタガタと音をたてている。頭を持ち上げて時計を見ると、十九時すぎだった。雨風がピークになると言われていた時間だ。そこまでぼんやりと考えて、ガバッと跳ね起きた。

「りっくん?」

 ベッドの上にも、部屋のどこにも、陸はいない。

 裸のままベッドから降りて、トイレや風呂場を覗いてみたけど、どこにも陸の姿はなくて、洗面所にびちょびちょの自分の服とバスタオルが落ちているだけだった。

 夢だったのだろうか。

 そう思って、自分の行動を思い返した。台風が近づくなか、ずぶ濡れになって帰ってきた。その時、部屋の前に陸が立っていた、ような気がする。もしかしてそれは夢で、実際は濡れた服を脱ぎ散らかして寝ただけだったのだろうか。

 ゾッと鳥肌が立った。夢だとしたら重症だと思った。陸に会いたいあまり、夢と現実の区別も付かなくなったのかと。


 でも。

 トイレに入った時、引きつれるような鋭い痛みとともに、血の混じったものがどろりと出てきた。

 それを見て、心底ホッとした。

 夢じゃない。陸は確かに、ここにいた。


 改めて陸のいた痕跡を探すと、座卓の上に一枚の名刺を見つけた。散らかりすぎていて気づけなかったのだ。


【医師  相馬 陸】


 名刺は県立総合病院のもので、専門は、精神科・心療内科となっていた。

 陸が医者になる夢を叶えていたことが嬉しかった。心を診る医者になったのが、いかにも陸らしいと思った。愛おしい気持ちでいっぱいになって、相馬という苗字ごと、陸の名刺を胸に抱きしめた。

 他にも陸が何か残していっていないか探した。仕事先だけでなく、プライベートの連絡先も置いて行っていることを期待したのだ。

 探しながら、いつしか部屋の掃除を始めていた。陸が次に来た時に恥ずかしくないように。

 けれど、風の音が止んで、やがて空が白み始めても、期待したものを見つけることはできなかった。


 それでもいい、と自分を納得させた。陸の居場所が分かっただけで十分だと。陸がメモも残さずに帰ってしまったのは、きっと訳があって急いでいたのだと。そう、例えば、急患があったのかもしれない。わたしがぐっすり眠っていたものだから、気を遣って起こさないでくれたのだ。きっとすぐに戻ってくるつもりなのだ。部屋の窓を磨きながら、繰り返しそう自分に言い聞かせていた。

 窓の向こうで、ビルの隙間から朝日が登り始めていた。台風が過ぎ去って、晴れた一日が始まろうとしていた。

 幸せな日々がやってくると、信じていた。

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