第3話

大丈夫よ、サチ。

 そんな時は、今も鮮明に思い出せるお母さんの声を頭の中で再生して、心の平穏を保とうとする。そうやって自分を大丈夫漬けにする。まるで薬物中毒者のように。


 大丈夫だよ、サチ。

 その声はやがて彼の声になっていく。

 いけない。そう思っても、それを止めることはできない。この麻薬が後で自分をひどく苦しめることになると知りながら、束の間の癒しを求めて、幸せな記憶に浸る。


 絶対に戻ってくるから、待っててーー。


 彼は戻ってこない。

 そう諦めてしまえたら、どれだけ楽だろうと思う。彼がいなくなってから十年以上が経った。待っている間にわたしは歳を取った。二十代ももう終わる。

 彼はどこかで幸せに暮らしているのだと、自分に言い聞かせている。彼が幸せなら、二度と会えなくても構わない。そう、いつも言い聞かせている。


 せめて生きているかだけでも知りたい。

 抑えきれない心の声に、涙がこぼれた。

 彼はもうこの世にいないのかもしれない。

 そう考えると、心の奥が冷えて、目の前が真っ暗になる。

 

 雨が涙を隠すから、タガが外れてしまった。本格的に泣きそうになるのを、さすがに部屋まで我慢しろと押しとどめて、賃貸アパートの中に駆けこんだ。

 雨と涙でぼやける視界の中で、なんとか三階までたどり着くと、廊下に人が立っているのが見えた。

 お隣さんかもしれない。交流はないけど、泣いているのを見られたら恥ずかしい。そう思って、顔を伏せて足早に自分の部屋へ向かおうとした。


 ーーサチ?


 彼の声が聞こえた気がした。

 そんなわけがない。頭でそう否定しながらも、足が竦んだ。そんなわたしのもとに、足音が近づいてくる。黒っぽい靴が目に入った。


「サチだろ」


 今度ははっきりと聞こえた。

 恐る恐る顔を上げながら、心の中にいろんな種類の恐怖が沸き起こった。幻聴だったらどうしよう。今の自分を見て幻滅されたらどうしよう。今頃になって別れを告げに来たのだとしたらどうしよう。

 だけど、彼の顔を見たら、全てが吹き飛んだ。


「りっくん……」


 それは紛れもなく、陸だった。ずっと待ち焦がれた陸が、確かにわたしの前に立っていた。

 陸に聞きたいことがたくさんあった。陸に話したいことがたくさんあった。

 けれど、生きている陸を前にしたら、何ひとつ言葉にならず、わたしは彼の胸に飛びついた。

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