第2話
外に出て傘を広げた途端、突風に強い力で引っ張られた。あっという間に全身がびしょ濡れになる。家までの数百メートルの距離が遥か遠くに感じられる。壊れそうになった傘を閉じながら、大野さんの言葉に甘えれば良かったと後悔しそうになったけど、覚悟を決めて大股で歩き出した。
わたしは環境に恵まれたと思う。薬学部を出て、薬剤師として今の職場で働き始めてから、もうすぐ五年になる。私と同じように薬剤師になった大学時代の友人は、会えば職場の愚痴ばかりだ。
調剤薬局で働く薬剤師は、薬局の構造上、狭い空間の中で働くことを余儀なくされる。そのため、人間関係がギスギスしていると、職場が地獄と化すのだという。実際わたしも、実習先の薬局がピリピリしていて、休憩中も気が抜けない経験をしたことがあるだけに、今の環境のありがたさを身に染みて感じている。
もちろん全てが順風満帆なわけではない。処方した薬に関する説明が患者さんに正しく伝わっていなくてトラブルになりかけたり、処方箋に疑問を感じて医師に問い合わせたらそんなことでいちいち電話してくるなと怒鳴りつけられたり、いろいろと神経がすり減らされる場面はある。
でも、そんなときはいつも誰かが助けてくれる。わたしが最年少だからというのもあるだろうけど、基本的にみんな優しいのだ。
他人に優しくできる人間は、自分に余裕があるのだーーそんな穿った考えを持つようになったのは、いつからだろう。
調剤部長の大野さんは、高校生と中学生の娘を持つ父親で、娘たちの話になるとあらゆる表情筋が緩んでしまう。上の子の志望校の学費が高額で払えるか心配だと話すのは、その子が優秀だという自慢も含まれているように思える。その大学は私立の名門だし、本当に家計が心配ならレクサスの車を買ったりはしないだろう。
旦那さんの悪口ばかり言っている杉浦さんも、本当は夫婦仲が良好なのだろうと思う。悪口を装いつつも、よく聞くと惚気だったりする。
要するに彼らは幸せなのだ。だから他人にも優しくなれる。
かく言うわたしも、特に不自由していることはない。
けれど時々、寂しさに思考の全てを絡みとられてしまうことがある。彼らが家族の話をするのを聞くのが、たまらなく苦痛に思えることがある。処方箋に記載された医師の名前を見ては落ちこむ日々に、絶望しそうになることがある。彼の夢をみた朝は、今も涙が止まらなくなる。
独り雨に打たれて帰る今だって、胸が塞がって、ともすれば膝から崩れ落ちてしまいそうだ。
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