第30話

また来るねと言い残して病室を後にした咲来は、廊下の長椅子に後藤が座っているのに気づいた。

 タブレットの画面を真剣な目で凝視している。白衣を床に落としているのにも気付いていない様子だ。

 悪戯心を起こして、彼がいるのと反対側に歩き出そうとした咲来は、自分のお腹が鳴る音にびっくりした。


「あ、オウマさん」

 後藤が気づいて呼びかけた。

「あれ?エレベーターこっちですよ。もしかして方向音痴ですか?」

「ち、違います。それより、白衣落ちてますよ」

「本当だ」

 白衣を拾い上げて、後藤が立ち上がる。

「お腹空いてるんですか?」

 咲来のお腹が再び鳴ったのを聞きつけて、後藤が尋ねる。

「す、空いてないです。こんなとこで何してるんですか?」

「いや、本間先生が何か勘違いしたのかここまで送ってくれて。それはいいけど、良かったら何か食べに行きます?俺もお腹空いてきました」

「い、行きません」

 またお腹が鳴って、咲来の顔が真っ赤になる。

「そ、そうですよね。すみません、馴れ馴れしくして。じゃあ病院の前まで一緒に行きましょう」

「そうじゃなくて」

 落ちこんだ様子の後藤の誤解を解くために、咲来は彼の方に歩み寄った。

「そうじゃなくて、お財布、持ってきてないんです」

 病院まで自転車で来た咲来は、家の鍵しか持っていなかった。

「何だ。だったら奢らせてくださいよ。めっちゃお腹鳴ってるじゃないですか」

「い、言わないでください。デリカシーないんですか」

「え、あ、すみません。俺、あんま気を遣えなくて、女の子からヒンシュク買うことが多くて……、うわ、すみません」

「別に、そこまで謝らなくても」

 ググー、とまた鳴って、後藤はパッと顔を背けた。肩が震えている。

「わ、笑ってます?」

「ごめん。すみません」

 後藤はひとしきり忍び笑いを漏らした後、笑みの残る顔を咲来に向けた。

「何食べたいですか?オウマさん」

「……ササラ」

「え?」

「どうせなら、ササラって呼んでください」


 気に入っていたと言ったばかりだけど、『オウマさん』と呼ばれると何だかたくさん食べる馬みたいな気分になる、と咲来は思った。


 それから、後藤が『ササラさん』と呼ぼうとするのを、『さが多すぎて嫌』と咲来が言って、病院を出る頃には『ササラちゃん』で何となく定着していた。

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