第29話

咲来が病室のドアをノックすると、「はい」と返事が返ってきた。

 思ったよりも元気そうな声で、咲来は少し安心した。


「咲来ちゃん!」

 ドアを開けた咲来を見て、母親はベッドから転げ落ちんばかりに喜んだ。

「落ち着いて、ママ」

 そう声をかけてそばの椅子に座ろうとした咲来を、母親はぎゅっと抱きしめた。

「ごめんね、ごめんね。どうかしてたわ。咲来ちゃんを置いていこうとするなんて」

 咲来は抱きしめられた不安定な体勢で、ふるふると首を横に振った。

「私の方こそごめん。ずっとお見舞いに来れなくて」

「やあねぇ。悪いのはママなんだから、咲来ちゃんは何にも謝ることないのよ。咲来ちゃんは良い子。本当に、ママにはもったいないくらい、良い子なんだから」

 娘の髪を何度も撫でながら、咲来の母親は何度もそう繰り返した。


 咲来は、その腕からそっと抜け出して、椅子に腰掛けた。

「私、良い子なんかじゃないよ」

「何言ってるの。咲来ちゃんはーー」

「奥さんがいる人のことを好きになったの」

 咲来が被せるように言ったら、母親はようやく口を閉じた。


「奪うつもりなんてなかった。でも結局、奥さんと子供のことを傷つけた。私、パパを奪ってママを傷つけた人と変わらない。どれだけ悲しくて惨めな思いをさせるか知ってたのに、ごめんなさい。ごめんなさい……」


 さめざめと泣く娘に向かって、母親は手を伸ばした。

 打たれることを覚悟していた咲来の頬を、母親が優しく撫でた。

「怒らないの?」

 そう尋ねた娘のことを、母親は愛おしそうに見つめた。

「ごめんね。パパとうまくいかなくて、咲来ちゃんのこと傷つけちゃって。やっぱり私は悪いママね」

「そんな、ママは何も悪くない」

「夫婦の間で、片方だけが悪いなんてことはないのよ。咲来ちゃんも、いつか結婚したら分かるわ」

 そう言われては反論のしようがなくて、咲来は消化不良のまま口をつぐんだ。

「咲来ちゃん、その人とはどうなったの?」

「会ってない。どうこうなるつもりもない。もう、好きじゃない」

「そう」

 咲来の母親は、娘の答えにホッとしたように微笑んだ。


「ねえ、咲来ちゃん。もうそんなことしちゃダメよ」

「しないよ。向こうの奥さんに申し訳ない……」

「そうじゃない。そうじゃないのよ」

 咲来の手を取って、子供に言い聞かせるように咲来の母親は言った。

「そうじゃないの。あなたが、不幸になるでしょう」

 予想外の言葉に呆気に取られた咲来の目から、またひとつ新しい涙がこぼれ落ちた。


「ちゃんとあなたのことを全身で大事にしてくれる人と恋をして、咲来ちゃんはちゃんと、幸せにならないとダメよ。大丈夫。ママがちゃんと、見ててあげるから」

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