第26話

金木犀の花が散る頃、病院の待合室で椅子に座りこんでいた咲来は、唐突に甘い匂いをかいだ。

 つと顔を上げて、自分の前を通り過ぎた白衣姿の男を、咲来は目で追った。


 気づいて。

 気づかないで。


 咲来の心は、その背中に向かって叫んだ。


 振り向いて。振り向かないで。

 助けて。助けて。


 でも、声にならないまま、遠ざかっていく彼の後ろ姿を見送っていた。


 受付から患者を呼ぶスタッフの声。

 診察室からのアナウンス。

 大きな声で話している老人たち。

 子供の泣き声。

 パタパタと走る看護師の足音。


 たくさんの人が行き来する通路の中で、彼は不意に咲来の方を振り向いた。

 ほんの刹那、後藤と咲来の間を遮るものがなくなって、彼は咲来に気づいた。

 後藤の目が、驚きに見開かれていく。


「ま、待って」

 身を翻して逃げ出した咲来を、後藤は追いかけた。


 助けて。助けて。

 私を見て。私を見ないで。

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