第20話

「後藤さんなら、お昼を食べにいったと思うけど」

 白衣も脱がずに久保教授の研究室を訪ねた咲来に、学部の同期がそう教えてくれた。


 研究室を追い出される前に、後藤にひと言お礼を伝えたかった。

 エントリーシートに付いていた『がんばれ!!』と書かれたポストイットを、捨ててしまったことをずっと後悔していた。孤独な就職活動中、一人でも応援してくれる人がいたことが、どれだけ心強かったか。

 あの日咲来の心を温めてくれたのは、眞野ではなく、後藤だったのだ。


 後藤が不在で肩透かしをくらった咲来は、同期と少し言葉を交わした後、研究室を後にしようとした。


 その時。

 風とともに、金木犀の匂いを感じた。

「あ、ちょうど戻ってきた」

 同期は、咲来の背後を指差すと、研究室の中に戻っていった。


「オウマさん?」

 安村の言う通り、後藤は咲来のことを、オウマともオオマともつかない発音で呼んだ。

 そんなあだ名を付けられるほどの間柄ではないはずだーー、そう不思議に思った咲来は、彼が自分の名前を、カタカナでしか認識していないことに気づいた。

『オオマササラ』

 確かに、カタカナだと苗字と名前の切れ目が分からない。


「俺に、何か用事ですか?」

 戸惑ったように訊いてくる彼に、咲来は訂正しなかった。


 咲来は、オオマササラという名前があまり好きではなかった。

 大政さんと呼ばれるのが、いつもしっくりこなかった。

 でも、『オウマさん』と呼ばれるのは、なんだか新鮮で、悪くなかった。

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