堕ちる

第16話

翌朝は、昨夜までの荒天が嘘のように、秋晴れの空が広がった。

 タートルネックにジーンズという露出の少ない格好で研究室に行った咲来は、眞野が休みだと知って、少しホッとした。

 首筋のキスマークを見る度に落ち着かない気持ちになった。眞野にどんな顔で会えばいいか分からなくて、緊張していたのだった。



 眞野は三日連続で研究室を休んだ。

 そんなことは、彼が咲来のいるラボに赴任して以来、初めてのことだった。



「私、眞野康博の妻ですが」

 眞野が来なくなって三日目の昼過ぎに、咲来がアイスボックスを手に提げて研究室に戻ってくると、そんな声が聞こえた。

 見ると、教授室の入り口に女が一人立っていた。

「大政咲来という人に会いたいのですが」

「大政さん?」

 中から教授が出てきて、廊下に立っている咲来に気づいた。

「ああ、彼女が大政ですが、眞野先生の奥様がどのようなご用件で?」

 咲来を指差して、教授は女にそう尋ねた。


 女は、それには答えずに、咲来の元にツカツカと近寄って、彼女の頬をいきなり平手で打った。

 鈍い音がして、咲来は頬を押さえて後ずさった。

「人の旦那を誑かして、よく平気な顔で実験してられるわね。恥を知りなさい」

「え、あの、奥さん?」

 教授が、間に入るべきか迷うように、所在なさげに手を宙に浮かせる。

 研究室の中から、何事かというように研究生がゾロゾロと出てきた。


「康博が何を言ったか知らないけど、あんたなんか若いだけなんだからね。それだけのことで選ばれて満足?あんただって十年もすれば価値が下がるのよ。一時の気の迷いだけで旦那を奪られたら、こっちはたまったもんじゃないわよ。娘もまだ小さいんだから」

 野次馬の存在などものともせずに、女はそう喚きたてた。

 咲来の先輩たちが、好奇心に満ちた目で、ひそひそと囁き合っている。


「あの、こんなところでは、ちょっと、やめていただきたい」

 教授が女に向かって遠慮がちに言った。

「大政さんも、もし奥さんがおっしゃるようなことをしたのだとしたら大問題だ。研究室を出て行ってもらうからね」

「え」

 困惑していた咲来は、教授の言葉に一気に頭の中が真っ白になった。

 研究室を追い出されるということは、卒業単位が取れないということだ。

 苦労して取った内定が、取り消しになる。

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