第12話
パソコンを置いて、投与のために飼育室に向かった咲来は、前から来た男と目が合った。
その男の顔に見覚えがあった。彼が纏う懐かしいような匂いにも。でも、どこで会ったのか、咲来は思い出すことができなかった。
「今から投与ですか?」
明らかに年上に見えるのに、男は咲来に丁寧語で話しかけた。
「え、あ、はあ……」
思い出せないことを隠したくて、咲来は曖昧な返事を返した。
「手伝いましょうか?台風ひどくなりそうだし」
「え、いえ、大丈夫です」
慌てて断った咲来に、男は何回か食い下がったけど、咲来の意志が強いのを見て、諦めたように甘い匂いを残して通り過ぎていった。
何とかやり過ごせたことに安心しながら飼育室に入って、咲来は実験マウスに薬液を投与し始めた。
薬効がみられたのとは別の被験物質だ。これを、濃度を変えて50匹以上のマウスに投与する。
咲来の脳裏に中田の言葉がちらついた。
『マウスのモデルで効いただけで、ヒトに効くとは限らないよね』
確かに、動物モデルとヒトとでは、病気になる仕組みも、薬の吸収や代謝のされ方も、何もかもが違う。だから、マウスで薬効が出たところで、薬になる可能性は極めて低い。
そんなことは咲来にも分かっていた。それでも、一縷の望みにかけて、こうして研究を進めてきたのだ。
慢性腎臓病を再現するために、実験マウスの腎臓の大部分を切除した。マウスの背中には、痛々しい傷跡が残っている。投与するためにつかみ上げると、マウスは咲来の手の中でバタバタと暴れた。
自分は何のためにたくさんの命を犠牲にしてきたのだろう。
黙々と投与を続けながら、咲来は泣きそうになった。
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