第9話
翌日の昼過ぎに、咲来は准教授の居室をノックした。
「これ拾ってくださったの、先生ですか?」
パソコンで作業していた眞野に調製記録を見せて尋ねた。貼られていたポストイットは、剥がして手帳に保管してある。
「いや……」
眞野は、落ち着かない様子で否定した。
咲来はその様子を見て、照れているのだと解釈した。
「ふふ、ありがとうございます」
笑いを含んだ声でお礼を述べた。
いつもよりも短いスカートを履いているせいで太ももがスースーするのを感じながら、踵を返そうとした。
「あ、大政さん」
呼び止められて、咲来は期待を込めて振り向いた。昼食に誘ってもらいたくて、この時間に来たのだった。
「シュークリーム、ありがとうね」
「ああ」
小さな落胆を隠して、咲来はにっこりした。
「奥さん、喜んでましたか?」
「娘が喜んでたよ」
眞野に子供がいる可能性を想定していなかった咲来は、一瞬フリーズした。
「娘さん、おいくつなんですか?」
慌てて会話を繋げた。
「小学一年生」
「そうなんですね。じゃあ、先生、パパなんだ」
「いやまあ、はは」
照れたように笑う眞野を見て、咲来の心の古傷が、ぱっくりと開いた。
「あ、採血に行かなきゃ」
嘘をついて、咲来はその場を立ち去った。
廊下を歩きながら、開いた傷からどす黒いものが、とめどなくあふれ出すのを感じていた。
咲来の七歳の誕生日だった。
いつも咲来が寝た後にしか帰ってこない父親は、その日は早く帰ると約束した。
でも、21時になっても、22時になっても、父親は帰ってこなかった。
母親に寝るように言われて、自分の部屋のベッドで横になったけど、悲しくてどうしても寝付けなかった。
ベッドの上で永遠にも感じるほどの時間を過ごした咲来は、日付が変わってしばらく経った頃、父親が帰ってくる音を聞いた。
誕生日おめでとう。それだけでも言ってほしくて一階に降りると、母親が父親に詰め寄っていた。
『咲来よりもその女の方が大事なの?』
母親は、確かにそう言った。
パパには、私よりも大事な人がいるんだ。
子供心にそれだけは分かって、自分の部屋に戻った咲来は、ベッドの中で声を押し殺して泣いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます