第3話

最低限の照明しか付いていない薄暗い廊下を、足早に歩いていた咲来は、角を曲がったところで人にぶつかりそうになった。

 その拍子に、メスシリンダーの中のMC溶液がこぼれて、咲来の顔にかかった。

「す、すみませんっ!」

 相手の顔を認識する前に、咲来は慌てて謝った。こんな時間に人に遭遇すると思っていなかった。

「これ、何?」

 尖った声とともに、メスシリンダーを持つ手を強い力で掴まれた。咲来は顔を上げて、『げっ』と思った。

 それは、咲来が所属するラボの准教授だった。

「すす、すみません、服にかかりましたよね」

 咲来はその男のことが苦手だった。


 30代後半くらいの、眞野という名の准教授は、アメリカの大学から今年戻ってきたばかりで、研究生への指導に熱が入っている。

 咲来も、研究の進め方を相談しに行くと、必ず理詰めでやりこめられた。院生や大学院に進学する同期と違って、大学さえ卒業できればいいと考えている咲来には、それが憂鬱だった。


「これは何だと訊いてるんだ」

 睨みつけるように見下ろされて、咲来はますます萎縮した。その様子を見て、眞野は咲来の手首を掴む手を緩めた。

「責めてるわけじゃない。顔にかかっても害のないものなのかが知りたくて訊いてるんだ」

 その軟化した口調に、咲来は落ち着きを取り戻した。

「あ、これは、MC溶液です……」

 咲来の答えを聞いて、眞野は小さく息をついた。ポケットからタオルハンカチを取り出して、咲来の顔を拭いた。そのハンカチは、ほのかに石鹸の匂いがした。


「今から投与に行くのか」

 そう問われて、咲来は頷いた。

「そうか。ここは俺がやっておくから行ってこい」

 濡れた床を指差す眞野に、咲来は恐縮した。

「いえ、そんな」

「いいから行け。こんな時間に投与するなんて、本当はあり得ないぞ」

 咲来が再度謝ると、眞野は何かを考えるように顎に手を当てた。

「帰る前に俺のところに寄れ。しばらくいるつもりだから急ぐ必要はない。遅くなるよりも、慌てて投与してマウスに噛まれたりされる方が困るからな」

 分かったか、と射るような目で確認されて、咲来はこくこくと頷いた。

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