【04-2】静かに迫り来る脅威(2)

灰野優子すみのゆうこは、少し冷静になって状況を理解すると、急に怖くなって立ち竦んでしまった。

どう考えても後を歩いていた女性が、忽然と姿を消してしまったとしか思えなかったからだった。


――まさか幽霊?

咄嗟に優子はそう思った。


工場と流通センターの間の通り沿いには、住宅や商店などは一切ない。

両方とも、長いコンクリート製の塀が続いているだけだ。


そしてその塀沿いには建物への出入口はなかったはずだし、途中に脇道もないのだ。

今歩いている舗道は流通センターの壁に沿ってずっと生垣が続いているが、塀と生垣の間に身を隠す程の隙間もないはずだった。


優子は車道を挟んだ反対側の歩道にも目を凝らしたが、やはりそれらしい人影は見当たらなかった。

そちらはずっと塀が続いていて、それを乗り越えでもしない限り、やはり身を隠すような場所はない。


勿論道の両側の塀は共にかなりの高さがあり、簡単に乗り越えられるものではなかった。

やはり先程の女性は、舗道上から忽然と姿を消したとしか思えない。


――さっきの水が噴き出す音は何だったんだろう?

――何か事故でも起きたのかしら?戻って確かめようか。


そう思いながら優子は迷ったが、すぐに思い直した。

辺りには彼女以外に人影はなく、静寂が満ちているだけだったからだ。


引き返してもし何かあったとしても、助けを求めることすら出来ない。

急激に恐怖が膨らんできて、優子はその場から逃げ去るようにして駆け出しいた。


自宅の玄関を駆け込むと、優子は荒い息を吐きながらその場にしゃがみ込んだ。


心配して玄関先まで出てきた母が、

「どうしたの?大丈夫?」

と言いながら娘の顔を覗き込む。


そして娘の顔色の余りの悪さに、一瞬息をのんだかと思うと、すぐにリビングにいる夫を呼んだ。


慌てて玄関に出てきた父も、娘の様子にひどく驚いたらしい。

少し狼狽えつつ優子を立たせると、肩を貸しながらリビングまで連れていき、ソファに掛けさせた。


父はテーブルを挟んで彼女の向いの席に着いた。

母もその隣に座る。


「大丈夫か?何があったのか話してごらん」

父は優子にそう声を掛けると、心配そうに娘の顔を覗きこんだ。

隣の母もそれに倣う。


優子は中々恐怖が収まらず、少しの間俯いて黙っていた。

しかし両親に聞いてもらった方が、気持ちが落ち着くと思い顔を上げると、今しがたの出来事を、言葉に詰まりながらも両親に話した始めた。


優子の話を聞き終えた両親の反応はそれぞれだった。


「あんたに何もなくと良かったわ。

だから人通りのある道を通りなさいと言ったじゃない。

これからはそうしなさいよ」

と、母は娘を諭した。


一方で父は、

「お前の後ろを歩いていた人は、案外途中で曲がるなり、元来た道を引き返すなりしたんじゃないのかな。


その後にその水の音がして、お前が振り向いた時には見えなくなっただけだと思うよ。

案外怪奇現象なんてそんなものさ」

と、構えて呑気な口調で言った。

怯える娘の気持ちを、和らげようとしたのかも知れない。


優子はあの道に途中で曲り角がないことや、仮に引き返したにしても、あの短時間だと、自分の目に留まらないはずはないと思った。

しかし強くそれを主張する根拠もなかったので、何となく両親に肯いていた。


気分は釈然とはしなかったが、父親の話で気持ちが落ち着いたのも確かだった。しかし夕食を終え部屋に戻って一人になると、靄々とした気分がまたぶり返してくる。


――後ろを歩いていたあの人は、突然消えたとしか思えない。やっぱり幽霊?

――それにあの音は何だったの?絶対聞き違いじゃないし。


そんなことを考え始めるとなかなか寝つけず、寝ようと思うと同じ考えが堂々巡りで浮かんで来る悪循環に陥ってしまった。

そして明け方になって漸く浅い眠りに落ちたと思ったら、途端にベッドサイドに置いた時計のアラームが鳴った。


結局その日は完全に寝不足のまま出勤し、ぼおっとした頭で園の仕事を何とかこなすと、早めに仕事を切り上げ帰途についたのだ。


両親には止められたが、どうしても気になったので、その日も流通センター沿いの道を通ることにした。


前日よりも時間がかなり早かったので、優子が流通センターの角に着いた時辺りはまだ明るく、歩く人もぽつぽつと見受けられた。


優子はほっと胸を撫で下ろすと、昨日と同じ道沿いを周囲に目を配りながらゆっくりと歩き始めた。

朝もこの道を通ったのだが、出勤を急いでいたのでゆっくりと観察している余裕はなかったからだ。


注意深く周囲を観察しながらしばらく歩き、丁度道の中間辺りまで来た時、優子は不思議な光景を目にすることになった。


朝通った時には、反対側の歩道を歩いたので気づかなかったが、一か所だけ生垣が凹んでいる場所があったのだ。

近づいて見ると、その場所だけ生垣が刈り取られているのが分かった。


切り口は綺麗な楕円形を描いている。断面を見る限りでは、その部分を折ったりむしり取ったりしたのではなく、機械を使って刈り取ったような滑らかさだった。


――どうしたら、こんな風に綺麗に刈り取れるんだろう?

そう不思議に思いながら生垣の下の部分に目をやると、歩道の境目にあるレンガ造りの縁石が生垣同様丸く削り取られていた。


そしてその断面も同じく滑らかだった。優子はその場にしゃがみ込むと、削られた部分を注意深く観察してみた。

通行人に変に思われているかも知れないが、そんなことは気にしていられない。


顔を近づけて見ると、縁石の損傷はわずかだが歩道の端にも達していて、その部分が削り取られたようになっている。

全体的に見ると、生垣から歩道にかけて断面が一つの楕円形を描いているのが分かった。


――今までこんなのあったかな?

――なかったよね。あったらさすがに気づくよね。

――これって、やっぱり昨日のことと関係あるのかな?


そう考えながら立ち上がった優子は、何気なく車道の方を見た。

すると、あるものが彼女の視線の端に引っかかった。

歩道と車道の境界の辺りに、何かが落ちているのが見えたのだ。


拾い上げてみると、それはメガネのフレームのようだった。

と言ってもフレーム全体ではなく、耳に掛ける部分だけだった。

ねじが取れて、レンズの部分から外れてしまったらしい。


優子はさらに周囲を見まわした。

するとメガネの残骸らしきものが、車道に落ちているのを見つけた。


車が来ていないのを見計らって車道に出ると、落ちていたレンズの部分と、もう片方の耳掛けの部分を拾い上げ、歩道にとって帰す。


通行人が怪訝そうな表情で彼女を見ながら脇を通り過ぎて行ったが、そんなことは気にならなかった。


車道で拾い上げた二つのパーツと、先に見つけたパーツを組み合わせると、女性用の一つの眼鏡になった。

耳掛けとレンズの部分を繋ぐネジが無くなっていて、バラバラになっていたのだ。


――ネジだけが無くなることって、あるのかしら?

手に持ったメガネの繋ぎ目部分をしげしげと見たが、答えは思い浮かばない。


優子はしばらくその場に佇んで考え込んでいたが、急に背中に寒気を覚え身震いした。

気づかない間に体中が汗ばんでいる。


昨晩自分の後を歩いていた人が、メガネだけ残してその場から消え去ってしまったという妄想に襲われたからだ。


――異次元空間に吸い込まれてしまったとか。

――でも、あの時の水の音は何だったんだろう?

――あれは絶対気のせいなんかじゃない。

そんなことを考えると物凄く怖くなり、優子は逃げ出すようにして、その場から速足で歩き去った。

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