【04-1】静かに迫り来る脅威(1)

その日の業務を終えた光が職員室の奥に置かれた時代物の大きな置時計を見ると、時刻は午後6時30分を回っていた。


朝からの頭痛は微妙な強さでまだ残っている。

胸騒ぎも収まっていなかった。


光は席に座ったまま一つ伸びをすると、書き終えたばかりの書類を片付け、帰り支度を始めた。


園児たちを送り出した後も、教室の掃除やその日の日誌のまとめなど、幼稚園の先生にはその日のうちに済ましておかなければならない業務が結構ある。


今日は違ったが、送迎バス当番の日には園に戻るのが大抵は午後5時を過ぎるので、それからその日の残務処理を始めると、終業時刻が8時を超えることもざらだった。

結構なハードワークである。


その日のノルマをクリアし、てきぱきと帰り支度を終えた光は、席に座ったまま椅子を回して振り返ると、

「まだ帰らんの?」

と、背中合わせの席にいる灰野優子すみのゆうこに声をかけた。


ここ数日、彼女は何かひどく思い悩んでいるようだったからだ。

ずっとその様子が気になってはいたのだが、今まで何となく話を聞きそびれていたのだ。


――もしかしたら、他人に知られたくないような事情なのかも知れないしな。

光はそう思ったし、万が一その事情が、自分の最も苦手とする恋愛関係の悩みだったらどうしようと考え、腰が引けていたのも事実である。


そんなヘタレな自分に段々と腹が立ってきた彼女は、その日意を決して優子に声をかけたのだった。

朝から続く頭痛で、少し気が立っていたことが決心を後押ししたのも、光らしいと言えた。


つまりは優子の様子が気になる癖に、うじうじと躊躇している自分に切れたということだ。

この辺りが彼女の<武闘派>たる所以ゆえんだろう。


光の声に振り向くと、灰野優子は何故か憂鬱そうな顔で光を見上げた。

彼女は今年短大を卒業して、幼稚園教諭になり立ての新人で、園の教員の中では一番年が近いせいもあってか、何かと光を頼って来る。


性格は明るく素直だったので、光は結構この後輩が気に入っていた。

そんな明るい子なのに、いつもの元気がない。


以前なら光が声をかけると、

「先輩晩御飯行きません?」

と軽い乗りの反応が返ってきたのだが、今日はそれもない。

じっと光を見て、黙っているだけなのだ。


光はそんな彼女の様子に我慢しきれず、

「どうした?最近元気ないじゃん。

何か困ったことでもあるなら話聞くよ」

と言いながら、優子の顔を覗き込む。


すると優子の目にみるみる涙が溜まり泣きべそをかき始めたので、光は慌てて周囲を見回す。

幸い何人か残っていた先生たちは仕事に集中していて、こちらの様子に気づいていないようだ。


「ちょっと止めてよ。まるで私があんたのこと泣かしたみたいじゃん」

そう小声で言うと、光は優子の後頭部に手をやって、強引に顔の向きを変えさせた。


そちらを向くと職員室の壁なので、他の教員に優子の泣き顔を見られることはない。


「一体どうしたのよ?急に泣き出して」

「光先輩、私怖いんです」


「どうした?何があった?」

「話聞いてくれます?」

「おお、勿論」


灰野優子すみのゆうこの話はこうだった。


彼女は南砂町から地下鉄東西線を使って、F幼稚園の最寄り駅である、木場まで通勤している。

南砂町の駅から自宅までの距離は、歩いて20分程だそうだ。


それが起こったのは、先週月曜日の帰宅途中のことだったそうだ。

優子が地下鉄を降りたのは午後7時30分を少し回っており、真夏とは言え、辺りもそろそろ暗くなる時間帯だった。


優子は帰宅時には、いつも駅を出て荒川方面に5分程歩き、工場と大手運送会社の物流センターに挟まれた道に入るルートを取っていた。

その道は夜になると、人通りが極端に少なくなるのだが、生まれ育った町という気楽さもあり、それまであまり気にしたことはなかったらしい。


同居する両親は、

「もう少し荒川の方に歩いて、大きめの通りを使って帰ってきなさい」

と常々口うるさく言うのだが、それだと10分以上の遠回りになってしまう。


真夏の蒸し暑い夜のプラス10分は、仕事に疲れた体には結構きついのだ。

その日も優子は、いつものように流通センター沿いの舗道を早足で歩いていた。


そこを抜けると商店やコンビニがあり、比較的人通りも増えてくる。

しかし彼女の前を歩いている人影はなく、工場と物流センターを挟む車道にも車の往来はなかった。


前を歩く人はいなかったのだが、何気なく振り返ると20mほど後方を人が歩いているのが見えたので、裕子は一瞬どきりとした。


慣れた道とは言え、やはり夜の一人歩きは少し怖い。

まして後を歩く人影には、どうしても警戒心を抱いてしまう。


しかし目を凝らしてよく見ると、シルエットから女性らしいと判断できた。

裕子は胸を撫で下ろすと、前を向き直り家に向かって歩き出した。


その時、「ザザッ」という大きな音が後方から響いてきた。

それは大量の水が、勢いよく噴き出す時の音のようだった。


驚いた彼女は、その場に立ち止まると、束の間躊躇したが、恐る恐る来た道を振り返る。

しかし後の舗道は静まり返っていた。

車道にも車は走ってない。


そして自分の後を歩いていたはずの女性の姿が、どこにも見当たらなかった。

優子は静まり返った周囲の状況に、呆然としてしまった。

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