【03-1】武闘派幼稚園教諭、蘆田光の誕生(1)

「暑いな、しかし」

蘆田光あしだひかるはその日何度目かの台詞を口にした。


7月に入ったばかりだというのに、既に夏の盛りのような猛暑が連日続いている。

最近は四季の間の勢力バランスが崩れて、夏だけが思い切り幅を利かせているようだ。


その暑さに加えて光はその日、朝から久しぶりに例の感覚に襲われていた。

目覚めた時から胸を締め付けられるような感覚があり、両方のこめかみに強い痛みを感じたのだ。


その痛みのせいで目が覚めたと言った方が、正確かも知れない。

そして鈍い痛みが、夕刻の今になっても断続的に続いている。


結局その日は1日中気分が滅入ったままだった。

当然のことながら、彼女の機嫌は朝からずっと悪い。


そしてこんな日には、これまでの人生で何度も経験してきた、余り嬉しくない記憶が蘇ってくるのだ。


光は子供の頃から、感の鋭い子だった。

それも尋常ではない鋭さだ。

超能力だという友人もいた。


しかし実際に未来の出来事を予知できる訳ではなく、何かが起きる予兆を感じるというような、漠然とした予感という方が正確だった。


そしてその予感は、自分や自分に近しい者に起きる、良くない出来事の前触れであることが多かった。

何か身の回りに、良くない出来事が起こる前には、胸が締め付けられるような感覚に襲われるのだ。


いつしかそれは、こめかみの痛みを伴うようになっていた。

それは朝起きた時から始まることもあったし、日中突然起きることもあった。


5歳の時に自転車で転んで、腕を骨折したこともあった。

仲の良かった友達が、目の前で溺れかけたこともあった。

体育倉庫に積んであった機材が、突然崩れ落ちて来たこともあった。


いつの頃からかその因果関係に気づいた光は、予兆があった日には慎重に行動するようになり、実害を避けることが出来るようになったのだった。


彼女が、自分のこの能力の凄さを思い知ったのは、小学校5年生の時だった。

その朝の胸騒ぎと痛みは、それまでに経験したことがない程ひどかった。

余りの痛さに光は学校を休もうかとも思ったし、母も休んでよいと言ってくれた。


しかしその日のうちに、どうしても友達に返さなければならない物があったのを思い出した光は、痛みに耐えつつ、いつもより少し遅れて家を出た。

その結果、朝の集団登校の集合時刻に遅れることになったのだ。


そのことは彼女自身には幸いした。

光が集合場所に着くと、時間が来て既に出発していた登校班の列が、20m程先を学校に向かって進んでいるのが見えた。


誰かが集合時間に遅れた場合は、待たずに出発するというのが、学校で決められた登校班のルールだったからだ。


班に追いつこうとして光が走り出そうとした時、右後方から来た1台の乗用車が、猛スピードで彼女を追い越して行った。

そしてその車は、スピードを緩めることなく、前を行く登校班の列に突っ込んだのだ。


わずか数秒間の出来事だったが、光は長い長いスローモーション映像を見るような感覚で、その一部始終を目撃していた。


車が衝突した際の轟音と、やがて立ち昇った黒煙。

血を流しながら泣き叫んでいる、低学年の子供たち。


集まってきた大人たちの発する、怒号や喧騒。

遅れて漂ってきたガソリン臭。


それら非日常的な音や臭いや映像が、その場に呆然と立ち尽くす光の意識の中を猛然と通り過ぎて行った。


悲惨な事故だった。

暴走車は登校班の前列に突っ込み、光の同級生を含む、五人の生徒が事故に巻き込まれたのだ。


事故に遭った5年生と6年生の男子二人が亡くなり、三人が重傷を負って、暫くの間入院することになってしまった。


高学年の生徒が前列を歩くのが、登校班のルールだったので、普段であれば5年生の光もその中にいるはずだった。

そう思うと、恐怖や安堵、その他の様々な感情が心の中で複雑に入り混り、光はパニックに陥ってしまった。


後から母に聞いた話では、その場にしゃがみ込んで意味不明の言葉を呟き続けていたらしい。


「光ちゃん。大丈夫?」

彼女の両肩を揺すりながらそう言った母の言葉が、彼女を現実世界に呼び戻したのだった。


暴走車を運転していたのは、40代の男性会社員で、過労による居眠り運転が原因だったようだ。

テレビや新聞の報道によると、その会社員は事故を起こすまでの数か月間、普通では考えられないような、時間外労働を続けていたらしい。


事故を起こした男性自身も、長期入院が必要な重傷を負っていたが、だからと言って事故の責任を免れることができる訳ではなく、加害者は毎日のように、テレビのニュースで糾弾されていた。


それにも増して、その会社員が勤めていた会社は世間の非難の的になった。

連日のように、その非人道的とも言える労働環境がマスコミに取り上げられた。

そしてその報道に煽られた、正義感に燃える世間によって、袋叩きに遭う羽目になったのだ。


謝罪会見の場に出て来た、その会社の社長は、ひたすら被害者に対する詫びの言葉を繰り返すだけだった。

その社長も、数日後に自死してしまい、事故は関係者に耐えがたい痛みだけを残して、やがて世間から忘れられていった。


それは後から少しずつ、光の耳に入って来た情報だった。

事故直後の数日間、光は外部からの全てのコンタクトを遮断して自宅に引き籠っていたからだ。


離れた場所から事故の一部始終を目撃し、彼女が受けた衝撃の方が、現場にいた当事者たちよりも、ある意味で大きかったのかも知れない。

事故は徐々に世間の関心を失っていったが、その余波は光の心の中でずっとわだかまっていた。

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