【02-3】女子アナ津村明子の憂鬱(3)

取材する場所によっては、今日のように社のヘリコプターに乗ることもある。

最初の頃は、その不安定な飛行体に乗るのがかなり怖かったのだが、今ではすっかり慣れてしまっていた。

慣れてきた自分に自己嫌悪を感じるくらいだ。


そんな時明子は、仕事と割り切るしかないじゃない――と自分に言い聞かせていた。

そうでも思わなければ、余計にみじめに感じられて仕方がなかったからだ。


その日明子たちの取材クルーが向かった先は、東京ディズニーリゾート付近から東京湾を5km程南に下った場所だった。

その付近の海上で、シャチの死骸らしきものが発見されたという情報が入ったからだ。


それは数週間前から東京湾内で頻繁に目撃されるようになった、雄のシャチのものらしかった。

<エド>というのが、そのシャチの愛称だった。


誰かが江戸前の海から連想して付けた名前らしい。

最初それを聞いたとき明子は、短絡的だな――という感想を抱いただけだった。


しかしその愛称は、テレビの力によって瞬く間に日本中に広がり、彼はたちまち国民の人気者になってしまったのだった。


エドと明子の付き合いは浅くない。

最初にエドが東京湾で目撃されたとき、真っ先にヘリコプターで駆け付け映像を流したのが、明子の所属する取材クルーだったからだ。


専門家の分析によると、エドは回遊中の群れからはぐれて東京湾に迷い込んだようだ。

湾内で船舶と接触して航行の妨げとなる恐れや、接触によってエド自身が傷を負う懸念もあったため、海上保安庁の巡視艇が、何度か彼を湾外に誘導しようと試みたが、いずれも上手くいかなかった。


どうやらエドは東京湾がかなり気に入ったらしい。

人間のお節介な懸念などまったく気に留める風もなく、彼は悠々と湾内を回遊し始めた。

時には荒川をかなり上流まで溯ることさえあったのだ。


発見された当初は、テレビ各局が競って彼の動静を報道し、エド見学クルーズという便乗商法を始める、ちゃっかり者の釣り船業者まで現れた程だった。

彼が荒川を行き来する時には、河岸に見物人が鈴なりになったりもした。


他府県からわざわざ見物に来る物好きな連中も、かなりの数いたようだ。

明子はその見物人の取材に駆り出されたこともあったのだ。

そのエドの死骸らしきものが、洋上を漂流しているというのだ。


その漂流物を発見した漁師から、地元の漁協に連絡があり、辿り辿ってSBCに連絡があったのが、午前10時頃だった。

それから発見場所などの情報確認の後、明子を乗せた局のヘリコプターが飛び立ったのが今から15分ほど前だった。


幸い天気は良く風も穏やかだったので、明子たちを乗せたヘリコプターは順調に飛行して、目撃情報のあった現場付近に到着した。

窓から見下ろすと、群青の海に、無数の白い波のひだが彩を添えている。


明子は身に着けた安全ベルトがしっかり締まっていることを再確認すると、扉を開けるよう同行したディレクターを目で促した。

自分のその手際良さを嫌悪する感情が、一瞬彼女の胸をぎる。


しかしその感情を振り払うようにして、開いた扉から少し身を乗り出すと、眼下の海を確認する。


そろそろ番組が始まる時刻である。

早く見つけないと、中継が間に合わなくなってしまうので、明子は内心少し焦っていた。


その時少し離れた海上に、白黒斑模様の、丸みを帯びた漂流物を発見した。

それは群青の海の色と、見事なコントラストをなしている。


パイロットもその漂流物に気づいたらしく、明子の指示を待つことなく、その地点に機首を向けた。


ヘリはすぐに漂流物の上に到着し、少し高度を落としてホバリングを始めた。

下の海面が、プロペラが起こす風にあおられて、沸き立つように細かく白い波しぶきをあげている。


その漂流物は間違いなくエドだと思われた。

何度も取材している明子には、見慣れた白黒の模様だったからだ。

波に身を任せるように漂っているその姿は、明らかに彼が死んでいることを示していた。


よく見るとエドの腹部は大きく抉れている。

そこからはみ出した内臓の残骸らしきものが、彼の死骸にぶら下がるようにして一緒に海を漂っていた。


二日酔いの明子は、その様子を見て思わず吐き気を催したが、ちょうどその時に、ディレクターが中継開始の合図を出したので、必死で堪えた。


――そんな無様な姿を、全国放送で晒してたまるか!

女子アナ津村明子の、壮絶な意地だった。


「東京湾の津村さん、聞こえますか?」

ヘッドフォンから、番組司会者の波佐間はざまの声が響いてきた。


元は漫談芸人だったが、最近では俳優や司会もこなすマルチタレントとして、お茶の間の人気がある男だ。


彼の声は不必要に大きいので、今日のような二日酔いの日には、その声が頭にガンガン響いて、明子は一瞬閉口する。


しかし明子は、すぐに気を取り直すと、

「はい、波佐間さん。聞こえますよ」

と、スタジオのMCに応じた。


「東京湾の人気者、シャチのエドが亡くなっているという情報が入り、現場に急行してもらっているのですが。津村さん、現場の様子はどうでしょう?」


――シャチをつかまえて、亡くなっているもないもんだ。これだから教養のない奴は。

内心そう毒づきながらも、明子はヘリコプターの爆音に消されないよう、大声で現場レポートを始めた。


「はい、現在私は東京ディズニーリゾートから数Km南に下った海上に来ていますが、エドらしい姿が認められます。


先ほど近づいた様子では、腹部にかなり激しい損傷がありました。

残念ながらエドは、最早生きていないものと思われます」


そこで一旦明子がマイクを切ると、カメラがエドの死骸にズームインする。

ベテランカメラマンの木崎は、腹部の損傷部位があまり映らないよう気配りも忘れない。

何しろ今はお昼時だ。


「本日東京湾内で操業していた千葉県の漁船が、エドらしき漂流物を発見して、すぐに漁協に無線連絡を入れたそうです。

その時点で既にエドは、今のように海上を漂っていたようです」


「津村さん、エドが亡くなった原因は、何なんでしょうか?」

番組アシスタントの、三浦彩香みうらあやかが話に割り込んできた。

明子が夜な夜な罵っている、後輩アナウンサーの一人だ。


――この間抜けが。そんなこと、今現場に着いたばかりの私に、解る訳がないだろうが。

――ちょっとは頭使えよ、馬鹿。


明子は心の中で彩香に向かって猛毒を吐いたが、表面上は差しさわりのない答えを返す。

「現在原因は解っていませんが、これから海上保安庁がエドを回収し、原因を調べると思われます」


「船のスクリューに巻き込まれた可能性もありますね。そうすると海上保安庁の懸念が、残念ながら的中してしまったわけだ」

波佐間が独り言のようにつぶやいた後、スタジオで出演者がやり取りする声がヘッドフォン越しに聞こえてきた。


「岸川さんどう思われますか?」

「人気者だったのに、残念ですね」

波佐間の振りに、レギュラーゲストの弁護士が、ありきたりのコメントを返している。


――岸川、お前なあ。中学生でも、もう少し気の利いたコメントを返すぞ。

明子は心中で彼にも毒を吐いた。

日頃から、その言動に見え隠れする、妙なエリート意識が、鼻についていたからだ。


「津村さん、ご苦労様でした」

その時突然、波佐間が中継終了を告げてきた。


先日発覚した、大物芸能人のゴシップに関する話題が後ろに控えているせいか、極端に短い尺のレポートにまとめられたようだ。

もはやエドの人気も、旬を過ぎてしまったらしい。


明子は少しむっとしたが、

「東京湾から、津村明子がお送りしました」

と、お決まりの台詞で中継を締めくくる。


二日酔いで体調が思わしくなかったので、短く済んで正直ほっとしたのも事実だった。

ディレクターがヘリコプターの扉を閉めると、明子はヘッドフォンを外し、遠ざかっていくエドの死骸を窓越しに見つめる。


その時、物凄く嫌な気分が込み上げてくるのを、明子は感じた。

二日酔いのせいではなかった。


エドが何か禍々しいものに襲われたのではないかという、根拠のない想像が心に浮かんで来たからだ。


――そんなはずないわよね。

そう思い直すと、遠ざかっていくエドから視線を外して、明子は小さく身震いした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る