【02-2】女子アナ津村明子の憂鬱(2)

しかし入社後3年が経過した時、彼女は人生で恐らく初めての、そして再び立ち上がることが出来ない程の、大きな挫折を味わうことになったのだ。


その当時の明子は、自分に主要番組のMCやキャスターの声が掛からないことに、かなりの焦りを覚えていた。

既に何人かの後輩アナウンサーが、メインではないにせよ、主要番組のレギュラーを任されていたことが、彼女の焦りに拍車をかけていた。


――自分のようにアナウンサーとしての能力が高く、容姿も人並み以上に優れている、言わば<選ばれし者>が、何故このように冷遇されなければならないのか?

明子には自分の置かれたそのような状況が、全く理解できなかった。


そんなある日、局の廊下を歩いている時に、彼女は僅かに開いた会議室のドアから漏れて来た会話を偶然耳にすることになった。

それは当時彼女が尊敬していた、喜多條というプロデューサーと先輩男性アナウンサーとの会話だった。


どうやら次回の番組改編時のキャスティングについて話して合っている様子だったので、明子は思わず立ち止まり、ドアに近づいて聞き耳を立てた。


先輩アナウンサーは、喜多條が手掛けていた番組の一つである、夕方の報道番組のキャスターを長年務めていた。

所謂いわゆる<局の顔>の一人だった。


二人は次回の番組スタッフ入れ替えについて話しているようだった。

「今度のサブですけど、津村なんかどうですか?」

男性アナウンサーが言うと、「何でそう思う?」と喜多條が返す。


「あいつ割と見栄えいいし、力もつけてきてるんで、そろそろメインでレギュラーやらせてみてもいい頃合いかなと思うんですよね」

先輩アナの言葉に、明子は思わず手を握りしめたが、次の瞬間、喜多條が発した言葉に凍りつくことになった。


「あいつは駄目だ。

何かこう、人を惹きつけるものというか、花がないんだよ」


「でも他の若手より、数倍努力してますよ」

男性アナがフォローしたが、喜多條は即座に追い打ちをかけた。


「こういうのは持って生まれたもんなんだよ。

努力でどうにかなるもんじゃない。

お前だって分かるだろう?」


「それもそうですね」

喜多條に追随するアナウンサーの声は、もはや明子の耳を通過するだけの、只の音声信号でしかなかった。


努力だけでは克服できない――という喜多條の言葉が、鋭利に研ぎ澄まされた剣先となって、彼女の強靭なプライドの鎧を突き抜け、心の急所に深く突き刺さっていたからだ。


これまでの自分の生き方や人生そのものまで、丸ごと否定する一言だった。

あれほど憧れ、全てをなげうって漸くたどり着いたはずのこの場所から、お前は不要だ――と、冷厳に宣告されてしまったのだった。


以来明子は、自分の居場所をずっと見失ったままでいる。

それは職場での物理的な空間とか、あるいは対人関係という意味合いの場所ではなく、心の置き所が見えなくなってしまったのだった。


――まるで波に翻弄されながら、当て所もなく海を漂う海月のようだ。

――あれ程嫌悪していた愚者達と、自分は何ら変わらない存在なのだ。

――いや、今の自分はそれ以下かも知れない。


明子はそれまでに経験したことのない、虚無感と徒労感の中に墜ちていった。

その時に気持ちを切り替えて違う道を選択していれば、あるいはそれまで培ってきた能力が生かされ、彼女の努力は報われていたかも知れない。


しかしその時以来、明子の心の視界には靄が掛かったような状態になり、次に進むべき道を模索することなど、出来なくなってしまったのだった。


それから5年が過ぎた。

最近ではストレスで、夜毎の酒量が増えてきている。


明子は酔うと必ず、自分を認めてくれない上司や、主要番組に抜擢された後輩社員の悪口を、毒煙のように吐き出し続けていた。


――実力もないくせに、上に上手く取り入って、今のポジションをゲットした。

特に後輩社員に対しては、そう決めつけて憚らなかった。


そんな明子の酒に付き合ってくれていた同僚たちが、徐々に彼女を敬遠するようになったのは、当然の流れだったろう。

今では行きつけのバーで、馴染のバーテンダーを相手に管を巻くのが常になっていた。


そして翌朝、不快な頭痛と共に目覚め、体中の血管に、水銀でも詰め込まれたような気怠さを覚え、自己嫌悪に陥る毎日なのである。


それでも明子は今の仕事にしがみついている。

このまま辞めてしまうと、自分があまりにも惨めになりそうな気がするからだ。


これまで散々見下してきた愚鈍な者たちから、憐みや侮蔑を受けることだけは、彼女には耐えられなかった。

そんな自分を想像しただけで、死にたくなる程の恐怖が込み上げて来るのだ。


だから明子は今、ひたすら現実から目を逸らして生きている。

今となっては何の意味も喜びも感じられない仕事を、砂を噛むような思いで、ただ黙々とこなしていくだけの虚しい日々を過ごしている。


かつてのように輝かしい目標に向かって突き進んで行く、颯爽とした津村明子の姿は最早そこにはなかった。


そして今日も、二日酔いの不快感に包まれながら、昼のバラエティー番組の取材に向かっているのだ。

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