第9話 近づく足音
胃が内側から溶け出していくような気持ち悪さで、体の中がいっぱいになる。目の前がくらくらして、頭の芯がしびれている。
「見えたかしら? あの子の犯した過去の罪が」
「あ……う……」
喉の奥から、切れぎれの声が
確かに見た。いや、体験した。どこかの
断片的ではあったけれど、これはどうしようもなく弓丸の中に眠っている記憶なのだろう。思い出すのは、ヤドリ
『この洞穴は、僕を除く
二つ目に見たあの光景……今の弓丸があれだけを思い出している状態だとすれば、あの洞穴を前にしてそう言っていたのもうなずける。
やっと息が整ってきて、私は而葉さんの肩を押し返した。わざわざこんな
「彼を野放しにしておけば、いつまた同じような間違いを起こすとも限らないわ。そうなったら、一番苦しむのはきっとあの子自身よ。分かるでしょう」
「それは……そうかもしれないけど、でも」
「芳帖の君だって、もうあんな思いはしたくないと思うの。あなたの手でもう一度深い眠りにつくのなら、きっと本望だわ」
「……っこんなの、何かの間違いだよ!」
今度こそ、而葉さんの手を振り払う。彼女はそれ以上深追いせず、私から少し距離をとって冷静なまなざしを向けた。さっき身をもって「体験」した通り、弓丸は過去に大変な罪を犯してしまったのかもしれない。詳しい前後関係は分からないけれど、禁じられていた一線を越えてしまったのかもしれない。それでも、何の事情も理由もなくそんなことをするような性格じゃないことくらいは知っているし、彼自身から何も聞かずに決めつけてしまうことだけは避けたかった。
そして何より。
「私……弓丸がわざとあんなことしたなんて、絶対に信じられない。而葉さんも見たんでしょ? 今だって半分くらい、これはあなたが私をだますために見せた幻覚なんじゃないかって思ってる。弓丸自身に説明してほしい。そうじゃないと、私はあなたに協力しない。封印なんてもってのほかだよ」
「でも、今の藍果さんには、芳帖の君を恐れる気持ちが生まれている。違うかしら?」
「ち……」
違う、と即答できない。気まずいとかそんなレベルの話じゃなく、万が一、逆上でもされたりしたら……宿世渡があるとはいえ、自分の身を守りきれる自身はない。そもそも、短刀一つじゃ対処の幅は限られているし、もしロングレンジになれば圧倒的に弓矢が有利だ。何せ、弓丸の側からすれば、私に落とし矢を一回当てるだけで済む話なのだから。
「あなたが是と言うのなら、私も力を貸してあげる。一緒に確かめに行きましょう。もし彼が急に暴れ出したら、私があなたを守ってあげるわ」
「而葉さん、が……? でも、一緒に行ったらさすがに怪しまれるかもしれないし、そんな込み入った話には答えてくれないと思う、けど」
「宿世渡の中に、入るのよ」
そう言って、彼女は得意げに微笑みながら私のポケットを指差した。
「こ、ここに? 而葉さんが?」
驚きで思わず大きな声が出る。確かに、而葉さん——マガツヒメは何らかの方法で人に化生を宿らせることができるくらいの力を持つ存在だし、どちらかといえば弓丸に近いタイプの存在なのかもしれない。出会ったばかりの頃の弓丸と同じように、この刀の中に入れたとしてもまるっきりおかしな話ではないだろう。
ポケットから宿世渡を出し、改めてそれを見つめる。金色の紋様が浮き出た黒い
「でも、この刀が私に憑いてからは、弓丸はこの中に入れなくなっちゃったの。だからあなたも……」
「その心配は無用よ。ほら、刀身を見せて。それをもって合意としましょう」
促されるまま、鞘から刀を半分ほど引き抜く。すると、彼女はニタリと笑みを浮かべ、瞬きもしない間に刀身の中へと消えてしまった。刀の中からは、ふふ、と彼女の笑い声が聞こえる。
「ど、どうして」
[だってこの刀……岐依の国に下る前は、私のものだったんですもの。よくなじむわ]
「そ、それは初めて聞くんだけど」
[だって言ってないもの。私、元々は本当に姫として京都に住んでたのよ。まつき姫]
それ以上は、何を聞いても答えてくれなかった。
これで果たして良かったのか、正直言って分からない。でも、こうなってしまった以上、こうして一緒に鎮場神社へと向かうしか行く先はなさそうだった。行動を先送りにしても、問題が解決することはない。だったら、今できることをするだけだ。
いつも通り宿世渡をポケットにしまおうとして、いや、もう少し取り出しやすくした方がいいだろうかと考え直す。通学鞄からヘアゴムを取り出し、手首の内側に宿世渡ごとくくりつけてみた。ほとんど袖で隠れるし、これは案外アリかもしれない。
と、そのとき、鞄の内ポケットからスマホが滑り落ちてしまった。あちゃ、と思いつつも落としたスマホを拾い上げ、本体とケースをチェックする。特に壊れた部分はないらしい。ホッと胸をなでおろし、画面をスライドして一応動作も確認する。
「ん? あれ……」
一件の未読通知。届いた時間帯は昨日の夕方。昨日は帰宅してすぐに寝てしまったし、学校では通知をオフに設定している。今まで気づいていなかった。
『あたしのことはたすけなくていい』
[行くんだったら早く行きましょう。私だって暇じゃないの。いつ心変わりするか分からないわよ]
「あ、うん、もう行く……」
鎮場神社での用が済んだら、稀瑠の様子も確認しにいきたい。どこのアパートに住んでいるかまでは知っている。でも、部屋の番号までは知らない。それが、昨日までの私と稀瑠の距離だ。
後ろ髪を引かれつつ、私は鎮場神社へとかけ出した。
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