第8話 封じられた記憶

「か、賭け?」

「あぁ、気にしなくていいわ。こっちの話よ」


 冷たい指先が、強い力で私の腕をつかんでいる。その力は、細くたおやかな彼女の手からは想像がつかないほど強く、腕を引いても振りほどくことはできなかった。そうこうしているうちに、横断歩道の信号が点滅し始める。


「あの、もう赤に」

「こっちへ」


 そう言って、而葉さんは私をどこかに連れていく。引きずられるように彼女の後ろを歩いていくと、私たちはブロック塀と用水路の間に挟まれた細い脇道に入っていった。生い茂った草木と水の流れる音で、ここでは何をしていても気づかれにくい。湿気の多い草いきれのにおいが、むっと鼻をさした。

 而葉さんが足を止める。私を振り返った彼女に明確な表情はなかった。強いて言えば、高ぶる緊張と興奮を無理やり押し殺しているような、どこかほころびを感じる無表情。

 ぞーっと背筋を冷たいものが走って、じり、と一歩後ずさりをした。


「い、いい加減離してってば!」

「嫌よ。離したら逃げるでしょう?」

「逃げるに決まってるでしょ!こんな場所に連れ込んで、怪しさしかないじゃない!」

「やっとお友達言葉で話してくれるのね。距離が縮んで嬉しいわ」

「ちょっ……と、痛いから」


 腕をつかむ力がさらに強くなる。私は一旦逃げるのをあきらめて、本題をたずねることにした。


「だいたい、こんなところに連れてきてどうしたの? 表じゃできないような話なんだろうけど、それにしたって公園とかでいいんじゃないかな……」

「私はそうは思わないわ」


 而葉さんは即座に私の言葉を否定する。そして、その制服の胸ポケットからハンカチで包まれた何かを取り出した。現れたのは、胡桃くるみによく似た形をしている黒い木の実。外側のからはなく、脳を思わせるその形がむき出しになっている。その実は半分に割られていて片方しかなかったが、どことなく見覚えがあった。過去の記憶をたどれば、何かが転がる音がする。

 コツン。

 からん。


「……これ、は」

「そう。これはヤドリづたの実よ」


 ヤドリ蔦。日向ひなたさん……日向ひなた瑛一郎えいいちろうという人物が、その身に宿していた化生けしょうだ。主に蔦状つたじょうの植物のような外見をしているが、その表面には凶器じみたとげが生えており、人の血を吸って胡桃のような実をつける。その実を食べると、血を吸った相手の記憶や思い出を見ることができる、という悪趣味な代物しろものだ。


「な、なんでここにこれがあるの? それに、色だって……」

「これは、芳帖ほうじょうきみの血から作ったヤドリづたの実。日向ひなたとかいう男は、この化生を使って楽しい記憶が見られる実だけを作らせていたようだけど、本来はどんな記憶も実にすることができる化生なの。その記憶が楽しく幸せなものであるほど実の色は白く、耐えがたいものであるほど黒くなる。あの洞穴で、芳帖の君がひどく血を流していたときがなかったかしら?」

「え? あ……!」


 私は、弓丸が落とし矢を確実に命中させるための隙を作るために、腹に大穴を食らった。それはもう文字通りの「大穴」だったわけだけど、それがふさがって今もこうしてピンピンしていられるのは弓丸に血をもらったおかげだ。しかも、指先から一滴ずつ垂らすような量じゃ足りなかったから、弓丸は自分の手首を一時的に切り取って傷口に血を注いでくれた。


「ま、まさか、あの時に弓丸が流した血を」

「ご明察。あの洞穴は足元が岩場だから、こぼれた血は染み込まずにその場に留まる。それを使って、芳帖ほうじょうきみからもヤドリづたの実を作っておいたのよ」

「……もしかして、それを見越して日向ひなたさんをあの場所に?」

「さて、どうでしょうね。案外、その場の思いつきで作っただけのことかもしれないわよ」


 ふふ、と而葉さんは唇を隠して、妄想たくましい子どものお喋りを聞き流すように笑う。けれど、私にはとても冗談には思えなかった。

 弓丸があの歩道橋にいたのは、而葉しかるばさんの手紙のせいだ。仮に、私と彼との出会いが最初から彼女に仕組まれていたのだとしたら——日向ひなたさんのことだって、彼女の策略の一ピースであった可能性は否めない。


 私は、毎日あの歩道橋を通って学校に行っている。

 そこに弓丸が立っていたら、私は彼を止めるだろう。

 そうすれば、彼はきっと、この先の危険を思って宿世渡を渡す。


 日向ひなたさんがヤドリ蔦の実におぼれて、その下半身が人としての姿を失っていけば、彼が住んでいたゴミ屋敷よりももっと広くて、人目につかず、雨風がしのげる場所を求めたはずだ。あの洞穴のことを教えて、その場所までの移動を手伝った人物が確実にいる。そしてそれは、順当に考えれば、彼にヤドリ蔦を与えたマガツヒメたる而葉しかるばさんの他にいない。

 

 いま、彼女が手にしている実を作るために必要だった偶然は……ひょっとして、弓丸が歩道橋に立っていたタイミングと私の登校時間が一致すること、だけだったんじゃあないだろうか。


「これを食べれば、芳帖ほうじょうきみの記憶がのぞけるわよ。もっとも、完全な形で見られるとは限らないけれど。それと、この実はこれしか持ってきていないから、あの男のようになる心配はいらないわ。私も半分食べてみたけど、ご覧の通りよ」


 そう言って、而葉さんはその長い脚を見せつけるように一歩踏み込み、私の口元に真っ黒な実を押し付ける。距離を取りたくても、すぐ後ろがブロック塀で下がれない。


「いらないなら、そこの用水路に投げ捨てても構わないわよ」

「ま、待って、捨てるのは」

「もったいない?」

「う……」


 危険なものであることは分かっている。でも、それ以上に、弓丸の記憶をのぞけるという誘い文句が、抗いがたいほどに魅力的だった。彼女の説明が事実だとすれば、これほどに黒いヤドリ蔦の実が見せる記憶は、きっと恐ろしく耐えがたいものなのだろう。だとすれば、その中身がどんなものかなんて、教えてもらわなくても想像がつくというものだ。


「無理に飲ませたりなんてしないわ。藍果さんが選んで頂戴ちょうだい


 白く泡だった水の粒が互いにぶつかり合って、ザァザァと私たちをはやし立てる。弓丸から直接話を聞くにしたって、それ以外に何も情報がなければ判断のしようがない。それに、炭のかたまりにも似たこの実から得られるものは、而葉さんから聞く言葉でも弓丸から聞く言葉でもない。ある意味、中立的で貴重な情報源だ。付け加えるなら、私の体はもう普通の人間と同じではない。こういうものに対する耐性も、日向さん以上にはあるはずだ。


 どうせ捨てられないのなら。


 私はぎゅっと目をつむって、ひと思いにその実を飲み込んだ。


***


 目が覚める。けれど、完全に覚醒しきってはいない。


 ふらふらと。

 おぼつかない足取りで、私は板張りの床を歩き回っていた。何か、自分の中に確固たる目的があるわけじゃない。ただ、代わりの命を吹き込まれた操り人形のように、周りにいる人をりつけては殺しているのが分かった。


 目に見えるものが、はっきりと像を結んでくれない。長い袖が、振り上げた腕にまとわりついてうっとおしい。

 一歩足を踏み込めば、生ぬるい液体が雨水のようにわらじの隙間から染み出した。いていた水色のはかまには、赤い飛沫しぶきが点々と花を散らしている。


 はっきりとしない視界の中、誰かが私を背後から抱きしめた。顔を見たい、と意味もなく思った。そんな気持ちとは裏腹に、この体は振り返ることもせず、その温かな体を後ろ手に刺し抜く。嫌な手応えと共に、人の崩れ落ちる振動が足元を揺らした。


 多分誰かが、大きな声で人を呼んでいる。でも、それは水中で聞く声のようにくぐもっていて、正確な言葉を聞き取ることはできなかった。


◇◇◇


 目が覚める。今度は、はっきりと目の前の光景を見ることができた。

 ゴツゴツと角ばった岩で構成された、殺風景な洞穴の中。

 周りには、男の、女の、子どもの死体が転がっている。その体には、どれもむごたらしい刀傷がついていた。どうしてこの死体がここにあるのかは分からない。けれど、その顔を見れば、彼らが自分の家族であることは容易に理解することができた。

 生気せいきを失くした視線と沈黙が、一身に降り注ぐ。

 急に足元から地面が無くなってしまうかのような感覚にとらわれて、私はたまらずその場から駆け出した。

 赤く染まった袖がひるがえって、視界を覆い隠す。


◇◇◇


 鋭い痛みが喉元をつらぬいた。何が刺さっているのか、誰にやられたのか、知ろうと思う気すら起きない。涙に濡れた目をゆっくりと開ければ、小さな野花のばな血溜ちだまりの中に浮いていた。


 轟音ごうおんが聞こえる。地面が揺れている。大粒の雨が新緑の葉を打ち落とし、雷が空気を割り裂いては次から次へと木を折っていく。


 これはきっと罰だ、と思った。思い出すのは、転がっていた家族の死体。投げ出された足。最後に感じた、背中の温もり。ぱらぱらと土や小石が落ちてきて、血にびついてしまった小さな手の上を無邪気に跳ねた。知っている……これは土砂崩れがここにたどり着く前兆だ。今に、大量の土と木と岩とが一体となって、竜のようにこの山の斜面を下り落ちる。


 もう、指先の一つすら動かす気になれない。この、異常な回復力を持つ体は、これまで負った傷の全てを治してしまった。もしもここに土砂が流れてきて、自分がその波に飲まれたら、今度こそ死ねるのだろうか。


 目を閉じようとしたとき、強烈な力が自分の体を引っ張って——


***

 

「は……! は、はぁっ、はぁ、は……っ」

「おかえりなさい」


 足からがくりと力が抜ける。息が浅くなって、上手く酸素を吸えない。その場に座り込もうとすると、而葉さんは私の体を抱きとめた。

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