第4話 日常の喪失②

 瀬名はスカートの上から手を重ね、ポケットの辺りを強くにぎりしめる。おそらく、そこにあの短刀を入れているのだろう。


「それがないと、困るの……瀬名。特に、日が落ちた後は必ず持っているようにって、それを渡してくれた子が言ったの」


 作業に熱中して、つい預けたままにしてしまった私が百パーセント悪い。でも、あの子から渡された大事な物だ。薄雲に映る夕焼けの残り火が、橙から薄紫へと移ろっていく。

 顔を上げ、瀬名は私のことをじっと見つめた。大きな瞳が、揺れることなく私を映す。


「教えて、藍果。話の続き、教えてくれたら返すから。お願い」

「瀬名……」


 きっと瀬名は、私のことを試している。本当に困っているのなら、この場で教えてくれるはずだと。瀬名は、私に隠し事をされるのが嫌なのだ。


 ふと、違和感を覚えて横断歩道の向こうを見た。いつもなら、一分ほどで青に変わるはずの歩行者用信号機。


「ね、ねぇ瀬名。あれ」

「なに?」


 す、と横断歩道の向こうを指差す。

 赤色の光が二つ、煌々こうこうと輝いていた。両手を横に揃え、「止まれ」を表す信号機の光。それが、上にも下にも灯っている。瀬名が、スマホのレンズをそれに向けた。


「藍果。あの光、上一つしか映らないよ」

「な……」


 突如、背後から石の割れるような音がした。コンクリートの欠片が転がり、何かが足に絡みつく。全身に鳥肌が立ち、悲鳴も上げられずに硬直した。


 バラの茎よりも太い、蔦のようなもの。それが、足首から膝、膝から太腿ふとももへと巻きつきながらい上がってくる。薄暗がりに目をらせば、それは割れた地面の隙間すきまから伸びていた。とげがざくざくと薄い皮膚に突き刺さり、鋭い痛みが体を走る。


「瀬名っ、あの刀、渡して……っ!」


 脳裏には、あの水色の長いそでがひらめいていた。きっとあの子は、こうなることを予見して。


「きゃあぁぁっ、い、いやっ……!」


 瀬名が私の脚を見て叫び、スカートから出した短刀を放り投げた。さやが外れ、露出したやいばが外灯の光を反射する。


 ざん、と。


 一陣いちじんの風が蔦の化け物を断ち切って、誰かが背後に降り立った。巻きついていた蔦ははらはらと枯れ落ち、忽然こつぜんと姿を消してしまう。


 振り返らなくても分かる。あの子だ。歩道橋で出会ったあの少年が、私のことを助けてくれた。


 ドッと肩の力が抜けて、頭の中がぐるぐると回るような感覚に襲われる。それは貧血のときのめまいにも似ていた。


「藍果」


 瀬名の声が夜道にひびく。食い入るように私の脚を見つめ、こわばった顔で言葉を続ける。


「私に聞こえたのは、何かが砕けて割れる音。それから、植物がれ合うような音。その後、藍果の脚にいくつも刺し傷がついて、どんどん血が流れてきて……」


 ふるえる指先を隠すように、瀬名はその手を背後に回した。信号は元に戻っていて、青い光が一つだけ灯っている。ここを渡った先の角に、瀬名の通う塾がある。


「ごめん。私、怖い……!」


 そう言って、瀬名はバッと背を向け走り出した。


「待って、痛っ」


 追いかけようと思っても、足の痛みはどんどん増してくる。見れば、つたい落ちた血が白い靴下を染めていた。さっきの化け物は何なのか、瀬名にどう説明したらいいのか。頭の中がいっぱいになって、私は地面にしゃがみ込んだ。


「なんでっ、こんな……!」

「藍果。立て」


 目の前に影が差して、聞き覚えのある声が降ってきた。顔を上げれば、そこにいたのは和服姿の男の子。

 

 細く短めの眉はキッと吊り上がっていて、目元には涼やかな品があった。下まつげの影が濃く、目尻や粘膜ねんまくに差した赤みは不思議な色気を感じさせる。虹彩には、金色の薄片はくへんがちらちらと混ざっていて。


「忠告、破っただろ」


 血色のいい唇を引き結び、怒った顔で私を見下ろしていた。二日前、あの歩道橋で出会った少年だった。





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