第3話 現れた彼

 ドッと肩の力が抜けて、頭の中がぐるぐると回るような感覚に襲われる。それは貧血のときのめまいにも似ていて、私は塀に背中を預けた。ふと我に返り、瀬名の方へと目を向ける。瀬名は、その手を硬く胸の前で握り、食い入るように私の脚を見つめていた。


「だ、大丈夫だよ、見た目は派手だけど、消毒して絆創膏とか」

「藍果」


 瀬名は、こわばった顔で言葉を続ける。


「私に聞こえたのは、何かが砕けて割れる音。それから、植物が擦れ合うような音。その後、藍果の脚にいくつも刺し傷がついて、どんどん血が流れてきて……」


 震える指先を隠すように、瀬名はその手を背後に回した。スーパーのドアが開き、膨らんだ買い物バッグを持った親子が喋りながら出てくる。いつも通りの光景が、今の私にはぼやけて見えた。

 横断歩道の向こうを見れば、信号の下段だけに青い光が灯っている。ここを渡った先の角に、瀬名の通う塾がある。


「説明」


 はっと顔を上げる。瀬名は、ポケットティッシュを差し出しながら、私のことをまっすぐに見ていた。


「明日、学校でしてよ。隠し事が気にくわないのは、本当だから」


 じゃあね、と言って瀬名が塾へと走っていく。痛みがだんだん増してきて、スカートをそっとたくし上げた。思ったよりも傷がひどい。伝い落ちた血が、白い靴下を染めている。

 とりあえず止血しなければならない。リュックの中を探ってみるが、ティッシュは残り一枚だった。申し訳ないが、瀬名に渡された分を使うしかなさそうだ。


「瀬名……」


 そのポケットティッシュを見て、私は唇を噛み締めた。瀬名が渡してくれたのは、中身がいっぱいに詰まった未開封の新品だった。



***


 夕食を終え、自室のベッドに腰掛けた。守り刀を隣に置けば、その重さでシーツが沈む。膝を抱え、腕の中に顔をうずめて目を閉じる。瞼の裏に映るのは、恐怖で凍りついた瀬名の表情。


 家にたどり着いてすぐ、シャワーで傷口を洗い流して手当てをした。ロング丈のスカートで隠してはいるが、至るところにガーゼが貼ってある。さっきのことは、まだ家族には話していない。ありのまま話したって、そう簡単に信じてはもらえないだろう。


 どう伝えるべきか、もう少し考える時間が欲しかった。


 目を閉じていると、時計の秒針の音がよく聞こえてくる。足の痛みは、時間が経つほどに酷くなっている気がした。まるで火箸でも当てられているように、傷口がじんじんとうずく。ガーゼを一つ外し、改めて状態を確認する。


「勘弁してよ……」


 血と、かすかな膿のにおいが鼻をついた。犬の咬み傷にも似たそれは、かすり傷とは言い難い。毒や菌が無ければいいが。


 私、朝まで生きてる? 


 いやもう、これまで普通に過ごしてきて、こんな心配をすることになるなんて思いもよらなかった。それに、大丈夫だったとしてあとが残ることは間違いない。一箇所二箇所なら、まぁ、いいのだけれど。

 足を伸ばし、スカートを膝上まで上げる。ガーゼの白が目にまぶしい。

 ベッドの上に体を倒し、天井を眺める。朝までこうしていたところで、視界は何も変わらない。当たり前だ。


「説明、か」


 ゆっくりと息を吐いて、よし、と心を決めた。守り刀を手繰り寄せ、その刃を照明にかざしながら、そっとさやを引き抜いていく。


 あの蔦に襲われたとき、最初からこうすればよかったのだ。これまでの反応を考えると、多分瀬名にはあの子の姿も見えない。さっさと助けを求めていれば、瀬名を怖がらせることもなかった。

 それなのに。


「あっ」


 考え事をしていたせいか、鞘から刃先が躍り出る。顔の上に落ちてきて、私は思いっきり首をひねった。

 

 この近さだ、避けきれるかどうか分からない。見るからに切れ味の良さそうなあの刀、耳くらいなら簡単に裂くだろう。


「いい加減にしろ」


 降ってきたのは刀ではなかった。ふぁさ、と少し硬めの布が顔を覆う。稲藁いなわらの匂いにも似た、どこか懐かしくほっとする香りがした。ぽす、と小さな音がして、守り刀が再びシーツに沈む。


 薄花色の袖が払われ、目の前が明るくなる。私をのぞき込んでいたのは、水干にはかま姿の男の子。右に寄せられた前髪が、薄い影を作っている。


「あ……」


 こうして近くで見ると、顔の造形がよく分かる。細く短めの眉はキッと吊り上がっていて、目元には涼やかな品があった。下まつげの影が濃く、目尻や粘膜ねんまくに差した赤みは不思議な色気を感じさせる。暗い茶色の虹彩には、金色の薄片がちらちらと混ざっていて。


 血色のいい唇を引き結び、少年は怒った顔で私のことを見下ろしていた。

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