第8話 鎮場神社

「ア、ヤ……」


 消えて、しまった。また、いなくなってしまった。


 んでいた雨が再び激しく降り出してきて、水滴に打たれた遊具や砂粒がさざなみのように音を立てる。割れていたはずの地面は綺麗きれいに元通りになっていて、アヤの姿も、地面に走った大きな亀裂きれつも、飛び散ったはずの土塊つちくれもない。地面に転がっているビニール傘だけが、ただ静かに雨の滴を受けていた。


 その側で、弓丸が小さく舌打ちをしながら地面に刺さった太刀たちを引き抜く。断ち切られたつたの切れ端が、毒虫のようにうごめいている。


「藍果、あの短刀を貸してほしい」


 弓丸の声は聞こえている。けれど、頭の中で言葉が堂々巡りをしていて、一向に喉から出てきてくれない。とりあえずベンチから立ち上がり、自分の傘を差すのも忘れて弓丸の元へと向かった。

 スカートから短刀を出そうとしたところで、アヤのビニール傘が再び視界に飛び込んでくる。


 血のように散った、砂混じりの泥の跡。

 深く裂けた透明なまく、衝撃で折れた金属の骨。


「ご、め……ごめんね、アヤちゃん……」


 もう、立っていられない。張り詰めていた感情がせきを切ったようにあふれ出してきて、その場でへたり込んでしまった。靴下に、スカートに、インナーパンツに、雨水が染み込んでくる。

 弓丸はそんな私の隣にしゃがみ込み、淡々とした声で言う。


「……黙ってるんなら、勝手に借りるぞ」


 私がうつむいたままぼんやりしていると、小さな手がスカートのポケットを探った。弓丸が短刀を取り出し、立ち上がって蔦の切れ端を見下ろす。さやから抜いて狙いを定め、いまだのたうち回るその断片に短刀の切っ先を突き立てた。そのまま刀身を貫通させると、蔦の切れ端は締められた魚のように力を失う。


 そして弓丸は、座り込んでいた私を振り向き、こともあろうかその状態の短刀——まだ蔦の先は細かく痙攣けいれんしている——を目の前に放り投げた。


「う、うわ、わ」

「拾ってくれ。追撃があったときのために、僕は手を空けておきたい」


 生理的な嫌悪感に顔をしかめつつも、蔦を貫いた短刀を拾い上げる。


 蔦に生えている棘は、やはりバラよりも太く鋭い。棘の付け根は赤黒く、先端に向かうほど鮮やかな赤色になっていた。昨夜私を襲った化け物と、ほぼ同じものだと見て間違いないだろう。


 水を吸った服は重く、濡れた刀の柄は冷たい。


 想像する。さっき起きたことからも、目の前にある化け物の端くれにも背を向けて、このまま眠ってしまえたら。けれど、柄を握る手に伝わる重みが、私の心を〈今このとき〉に引き戻す。短刀の重さを手の内に感じながら、ゆっくりと息を吸い、胸のつかえを吐き出した。


「藍果。ついてきてほしいところがある」

 


***




 公園から五分ほど進んだ先で、小山に面した坂道を上がった。道幅は車が一台通れるくらいで、タイヤ跡を挟むようにして雑草が生えている。勾配は緩やかだが、すぐ横の斜面からはシダや木の枝が飛び出していて、水たまりに気を取られていると頬に当たりそうになる。 


「ほら、気をつけて。足元も滑るから」

「う、うん……」


 枝葉が隠してくれるおかげで、傘を差す必要もない。私たちのほかに人影は無く、目にるような新緑だけが、雨を受け止め受け流してはささやき声を立てている。


 弓丸が足を止め、斜面に向かって顔を上げた。


 石段が、うっそうと茂った木々の奥へと続いている。わらじを履いたその足で、とったったっ、と軽やかに石段の真ん中を踏んでいき、弓丸は石造りの鳥居をくぐった。そこからさらに数段上がってきびすを返すと、鳥居に飛びついてぶら下がる。


「ちょ、ちょっと」

「そんなに驚かないでよ。これくらい、多少身軽な小学生ならできる。いたでしょ、やたら運動神経のいいクラスメイト」

「……まぁ、うん」

「それに、ここは僕の神社だから好きにしていいんだよ。ほんとはゆっくり案内するつもりだったけどっ……と」


 弓丸は勢いをつけて体を引き上げ、鳥居の上から顔を出した。近くには、私の背と同じくらいの石柱がひっそりとたたずんでいる。草木にもれかけてはいるが、その石柱には〈ちん神社〉と刻まれていた。


「僕のお社やしろへようこそ」



***


 あの鳥居をくぐってから、階段をしばらくあがった先に境内けいだいがあった。あまり広くはないが、荒れ果てないよう最低限の手入れはしてある、といった様子で、石畳の間にもそれほど雑草は生えていない。ただ、手水舎ちょうずやの水は止められていて、柄杓ひしゃくも置かれていなかった。


「ねぇ、あの……ここ、本当に入っていいの……?」

「僕がいいって言ってるんだからいいでしょ。すぐに出るけど、これでも羽織はおってて」

「あ、ありがと……ってこれ、もしかして鹿の皮!?」


 お社には傷みこそあるものの、このお社が弓丸へのせめてものはなむけだった、ということが十分にうかがえる造りだった。そして今、私はそのお社の中で、むしろの上に座って鹿の毛皮を羽織って、蔦の化け物の断片が刺さったままの小刀を持ちながら、弓丸の身支度が終わるのを待っている。かなりカオスな状況だ。


「この場所、早めに教えておきたかったんだ。万一のことがあっても、連絡場所や待ち合わせ場所として使える。手紙でもカードでも、そこらへんに置いといてくれたら見るよ」

「はーい……」


 なんとなく返事をしながら、お社の中を見渡した。板張りの床、外と内を仕切る格子戸、火皿に芯が置かれた灯台、箱がいくつか置かれた棚。奥の方は薄暗くてよく見えない。それほど広くはないが、雨風をしのぐには事足りる。鹿の毛皮は暖かい。


「っていや、そうじゃなくて、神主さんに見つかったりとかしたら」

「この神社、神主は特別な祭事でもない限り来ないよ。どうしても気になるんなら、この社全体に目眩めくらましの術をかけておくけど」

「え、そんなことできるの」

「建物一つ分くらいの範囲なら」


 そう言って弓丸は静かに目を閉じ、「朧月夜おぼろづきよ」とつぶやいた。たちまち霧のようなものが現れ、水を揺蕩たゆたう藻のように私たちの周りを囲う。目を丸くする私の様子に、弓丸は少し口元を緩めて付け加えた。


「これで、たいていの人間はこの社に気づかない。コツは、今までに見た中で一番美しい朧月夜を、まぶたの裏によく思い浮かべることだ。逆に、術を解くときは『夜が明ける』と言えばいい。僕の霊力である血を分け与えた者なら、できたっておかしくはないな」


 ふうん、と単に相槌あいづちを打とうとしたところで、はたと思い出した。昨夜の私の脚の治療には、弓丸の血が使われている。


「えっじゃあこれ、私もできたり」

「もっとも、あんな量の血じゃ足りないけど。僕の真似事をするなら、少なくとも君の血の半分以上が僕の血と入れ替わらなきゃ無理だ。さすがに、そこまで大盤おおばん振る舞いはできない」

「……ちょっと、今の引っかけでしょ」

「さてね」


 弓丸は、話しながらもてきぱきと身支度を進めていく。衣服に残る水分をタオルで拭きとり、くくひもを引いて袖口を絞る。それから、首元に親指を入れ、水干の衣の下からスーッと紐状ひもじょうの何かを引き出した。端が胸元で結ばれていて、その先にはそれぞれ赤と青の透明な玉が取りつけられている。弓丸はその首飾りを解いて外し、ブレスレットのようにして右手首に付けた。


「それ何?」

「秘密。もしくは、じきに分かる」


 弓丸が格子戸を開けた。空は暗く、未だ雨は降り続けていたが、さっきよりは雨足が弱まっている。私を振り返ったその少年は、かすかに笑ってこう言った。


「一緒に行こうか、人助け」

 

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