第8話 鎮場神社
「ア、ヤ……」
消えて、しまった。また、いなくなってしまった。
その側で、弓丸が小さく舌打ちをしながら地面に刺さった
「藍果、あの短刀を貸してほしい」
弓丸の声は聞こえている。けれど、頭の中で言葉が堂々巡りをしていて、一向に喉から出てきてくれない。とりあえずベンチから立ち上がり、自分の傘を差すのも忘れて弓丸の元へと向かった。
スカートから短刀を出そうとしたところで、アヤのビニール傘が再び視界に飛び込んでくる。
血のように散った、砂混じりの泥の跡。
深く裂けた透明な
「ご、め……ごめんね、アヤちゃん……」
もう、立っていられない。張り詰めていた感情が
弓丸はそんな私の隣にしゃがみ込み、淡々とした声で言う。
「……黙ってるんなら、勝手に借りるぞ」
私がうつむいたままぼんやりしていると、小さな手がスカートのポケットを探った。弓丸が短刀を取り出し、立ち上がって蔦の切れ端を見下ろす。
そして弓丸は、座り込んでいた私を振り向き、こともあろうかその状態の短刀——まだ蔦の先は細かく
「う、うわ、わ」
「拾ってくれ。追撃があったときのために、僕は手を空けておきたい」
生理的な嫌悪感に顔をしかめつつも、蔦を貫いた短刀を拾い上げる。
蔦に生えている棘は、やはりバラよりも太く鋭い。棘の付け根は赤黒く、先端に向かうほど鮮やかな赤色になっていた。昨夜私を襲った化け物と、ほぼ同じものだと見て間違いないだろう。
水を吸った服は重く、濡れた刀の柄は冷たい。
想像する。さっき起きたことからも、目の前にある化け物の端くれにも背を向けて、このまま眠ってしまえたら。けれど、柄を握る手に伝わる重みが、私の心を〈今このとき〉に引き戻す。短刀の重さを手の内に感じながら、ゆっくりと息を吸い、胸のつかえを吐き出した。
「藍果。ついてきてほしいところがある」
***
公園から五分ほど進んだ先で、小山に面した坂道を上がった。道幅は車が一台通れるくらいで、タイヤ跡を挟むようにして雑草が生えている。勾配は緩やかだが、すぐ横の斜面からはシダや木の枝が飛び出していて、水たまりに気を取られていると頬に当たりそうになる。
「ほら、気をつけて。足元も滑るから」
「う、うん……」
枝葉が隠してくれるおかげで、傘を差す必要もない。私たちの
弓丸が足を止め、斜面に向かって顔を上げた。
石段が、うっそうと茂った木々の奥へと続いている。わらじを履いたその足で、とったったっ、と軽やかに石段の真ん中を踏んでいき、弓丸は石造りの鳥居をくぐった。そこからさらに数段上がって
「ちょ、ちょっと」
「そんなに驚かないでよ。これくらい、多少身軽な小学生ならできる。いたでしょ、やたら運動神経のいいクラスメイト」
「……まぁ、うん」
「それに、ここは僕の神社だから好きにしていいんだよ。ほんとはゆっくり案内するつもりだったけどっ……と」
弓丸は勢いをつけて体を引き上げ、鳥居の上から顔を出した。近くには、私の背と同じくらいの石柱がひっそりと
「僕の
***
あの鳥居をくぐってから、階段をしばらく
「ねぇ、あの……ここ、本当に入っていいの……?」
「僕がいいって言ってるんだからいいでしょ。すぐに出るけど、これでも
「あ、ありがと……ってこれ、もしかして鹿の皮!?」
お社には傷みこそあるものの、このお社が弓丸へのせめてもの
「この場所、早めに教えておきたかったんだ。万一のことがあっても、連絡場所や待ち合わせ場所として使える。手紙でもカードでも、そこらへんに置いといてくれたら見るよ」
「はーい……」
なんとなく返事をしながら、お社の中を見渡した。板張りの床、外と内を仕切る格子戸、火皿に芯が置かれた灯台、箱がいくつか置かれた棚。奥の方は薄暗くてよく見えない。それほど広くはないが、雨風をしのぐには事足りる。鹿の毛皮は暖かい。
「っていや、そうじゃなくて、神主さんに見つかったりとかしたら」
「この神社、神主は特別な祭事でもない限り来ないよ。どうしても気になるんなら、この社全体に
「え、そんなことできるの」
「建物一つ分くらいの範囲なら」
そう言って弓丸は静かに目を閉じ、「
「これで、たいていの人間はこの社に気づかない。コツは、今までに見た中で一番美しい朧月夜を、
ふうん、と単に
「えっじゃあこれ、私もできたり」
「もっとも、あんな量の血じゃ足りないけど。僕の真似事をするなら、少なくとも君の血の半分以上が僕の血と入れ替わらなきゃ無理だ。さすがに、そこまで
「……ちょっと、今の引っかけでしょ」
「さてね」
弓丸は、話しながらもてきぱきと身支度を進めていく。衣服に残る水分をタオルで拭きとり、
「それ何?」
「秘密。もしくは、じきに分かる」
弓丸が格子戸を開けた。空は暗く、未だ雨は降り続けていたが、さっきよりは雨足が弱まっている。私を振り返ったその少年は、かすかに笑ってこう言った。
「一緒に行こうか、人助け」
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