第10話 綺麗

 アプリをアンインストールした。もう僕には必要ない、そう思ったから。もう慰めのために行為に走らないと心に決めた。普通の男子高校生として、僕は制服に袖を通す。誰もいない部屋に行ってきます、と言って家を出た。清々しい空気に突き動かされるように駅に向かう。刺激的でも何でもないけれど、この平穏が心地よかった。学校に着くと、朝から甲高い笑い声が響き渡っている。教室のドアを開ける。彼女たちが此方に顔を向ける。


「おはよう。シュンくん」


彼女の優しい微笑みが、僕を出迎えてくれた。くだらないことで笑って、喧嘩して、泣いて。極普通の、どこにでもある日常。こんな温かい日々がずっと続けばいいのに、そう思っていた。けれどもそれは叶わない願いだ。どんなことにも必ず終わりはある。永遠なんてない。終焉の時はジリジリと僕らに肉薄していた。


 金曜日の放課後、久しぶりにユイと二人っきりで帰った。他の連中は追試に追われているようだった。


「僕ら勉強頑張ったもんねー」


と自慢げに言うと、アヤが鬼の形相で此方を睨んでいた。


「二人で勉強した甲斐があったね」


と帰り際に彼女が言った。続けて思い出したようにこう言った。


「あれから、もう手は引いたの?」

「——うん」


よかった、と彼女は嬉しそうに笑った。けれど、その喜びの表情に少しばかり陰りがあるのを見逃さなかった。そう言えば、彼女も——カフェで話をした時言っていた。砂の城。触っただけで崩れかねない何か。一体あれは——。これは触れるべきなのだろうか。分からなかった。もしかしたら僕の方から触れてほしいのかもしれない。けれど確証がない。彼女の中にもう一歩足を踏み入れていいかという自信がなかった。僕は臆病だ。彼女が壊れてしまうことを恐れていたのだ。彼女が話したいときでいいじゃないか、まだ時機じゃない。そうやって自分で誤魔化し続けてきた。あれからもう随分時間が経つ。僕は——どうするべきなんだろうか。先延ばしにするのは得策ではない気がして、もう今日しかない、そう思った。帰りにカフェにでも、と誘おうとした時、彼女の携帯が鳴った。彼女は慌てて電話に出る。はい、はい、と何回か相槌を打った後、電話は終わった。


「ごめん、シュンくん!急用できちゃった。あたし帰るね。またね!」


彼女はそう言って走って駅に向かっていた。用事があるのなら仕方ない。それなら駅前の本屋に寄って帰ろうと思い、彼女の走り去る姿を見送った。そうしてとぼとぼと独り書店に向かう。気晴らしに音楽でも聞こう、とスマホを取り出してイヤホンを装着する。お気に入りの歌手のプレイリストを流した。曲の合間にこの歌手特有のポエトリーが入る。



サーベル代わりの過去を携えて

なけなしの希望を握り締めて

それでも、と僕らは宵闇と対峙する


明けない夜はないってのは綺麗事だ


 *

 午後八時。家で独り、晩飯を食っていた。今日は和風パスタ。時間が有り余っているため、コンビニ飯で済ませることが少なくなった。最近では自分でレシピを調べて作っている。味は分からないけれど。スマホを弄りながら、パスタをズルズルと啜る。我ながら汚い食べ方だ。自覚はしているが、パスタの食べ方だけはどうにも直せそうにない。皆器用にスプーンの上でくるくるとフォークに巻きつけるのだけれど、あれは僕からすれば曲芸だ、なかなか高度な技術を要するようで僕にはできっこない。と、そんなくだらないことを考えていた時、突然携帯が鳴った。驚いて滑り落ちそうになった携帯をかろうじて掴み取って、電話に出る。激しいノイズが交じった向こう側から聞こえてきたのは、ユイの声だった。


「もしもし、シュンくん」


「ユイ、なんかあった?」


「特に何もないんだけどさ……今、空いてる?」


突然の呼び出しに何かあったのではないかと疑ってしまう。


「暇だけど……」


「今から、私の家のある街まで、来れる?」


さっきから何か焦っているような様子だった。彼女の家があるのは、あの歓楽街だ。正直もう行きたくないという気持ちのほうが強いが、やむを得ないだろう。


「今から出るよ」


と言うと


「ありがとう、ほんとに。駅で待ってる」


とだけ彼女は言って向こうから切った。何だよ、と思いつつも、何か切羽詰まっているような様子だったので早めに行ったほうが良かろうと、準備もそこそこに家を出た。


 改札を降りると、直ぐ側のベンチに彼女が座っていた。やぁ、と手を挙げると彼女は僕に気づいたようで立ち上がった。つい数時間前にあったときとは違い、彼女は随分派手な化粧をしていた。真っ赤なリップにラメ入りのアイシャドウ。とても少女がするにはドギツいメイクだった。服装も華美で、この前一緒に出掛けた時とはまた打って変わって激しい。胸の谷間を露骨に見せる、親父がいかにも食いつきそうな格好だった。あまりにも露出度が高めだったので、自分が来てきたコートを彼女に着せた。


「そんな格好してたら風邪引くぞ」


彼女は大人びた、というか大人に見せようとやけに背伸びした化粧の皮を引き攣らせるようにして微笑みを浮かべた。


「ご親切にどうも」

「で、何かあったの?また最初会った時みたいにナンパとか?」


と茶化して言うと


「そんなんじゃないよ」


と少し悲しそうに言った。誂ってはいけない内容のようだった。


「行きたいところがあるの」


彼女が僕の前に手を差し出した。僕はその手を握る。ネオンが煌々と光る夜の街を、二人の若い男女が駆け出した。


 息切れするほど走った末、彼女が立ち止まったところにあったのは、ホテルだった。勿論愛を育むためのホテルである。彼女が何をしたいのか分からなかった。しかし、目的はその中ではなかったようだ。ホテルの裏側の路地。そこに外壁に付いた非常階段があった。彼女はそれを勢いよく上り始めた。カツンカツンという金属音が響く。ホテルの従業員にバレないのだろうかと思ったが、そんなことお構いなしに彼女はぐんぐんと上っていった。僕はと言えば、階段ダッシュは三階までが限界だった。多分彼女は屋上まで行こうとしているのだろう。屋上は窓の数からして八階だ。本当に上り切るつもりなのだろうか。四階ほどまで行くと彼女も流石にバテていた。


「どうしてこんなところ上ってるの」


息も絶え絶えに聞く。


「さぁ、答えは屋上についてからのお楽しみだよー」


ゆっくり手摺を掴みながら上ってゆく。街灯が辛うじて階段の金属板を照らしているが、これがなかったら踏み外していてもおかしくない。五階になったころからひやひやしながら登る。ふと考えた。どうして屋上に向かおうとしているのか。もしかして——。嫌な予感が脳裏を過る。


「おい!今すぐ降りてこい!」


慌てて彼女を呼び止める。彼女は忠告も聞かずに上り続ける。


「おい!ユイ!ユイ!」


声を荒げると


「うるさいなぁ」


といつもと変わらぬ気怠そうな声が聞こえてきた。


「あ、もしかしてさ、あたしがここから飛び降りるって思った?」


どきりとした。図星だ。


「安心して。自分を殺す勇気なんてないから」


あっけらかんと彼女は言う。ほっとして僕はその場にへたり込んでしまった。とは言え油断禁物だ。彼女のことだからなにをしでかすか分からない。急がなければ。そう思ってまた駆け出す。ギシギシと階段が軋み、板を踏む度に鈍い音が耳に留まり続ける。足が痛い。これは明日筋肉痛確定だ。そんなことを思いながら、七階の階段を上る。彼女はもう屋上まで辿り着いたようだった。僕も何とかラストスパートまで漕ぎ着ける。あと少し。あと少し。最後の金属板を踏みつけて、僕は屋上に立った。彼女は端にいた。僕の方を振り返って手招きする。僕は彼女の方に歩み寄る。


「見て」


彼女が言った。柵の向こうに広がるのは、壮大な夜景だった。鮮やかなネオンが明滅する歓楽街。それを上から一望できる場所だった。


「なんて、綺麗なんだ」


思わず息を呑んだ。


「でしょ。夜景の穴場スポットだよ」


彼女は自慢げにそう言った。


「一点に集中して見てみると、性と金、欲望ばっかで、本当にどうしようもない、反吐の出るような所かも知れないよ。平気で子供を性的搾取してるゴミ屑なんてザラにいる。でもね、こうやって上から見渡してみると、案外悪くないんじゃないかって、この街も捨てたもんじゃないって、そう思えてくるの。美しいものの一部というか。綺麗なものって、汚いものも内に含んでるんじゃないか、そんな気がしない?」


彼女は一辺にそう言い切った後、一呼吸置いて言った。


「人生ってのも、こういうものよね」


僕は彼女を見た。遠いネオンの明かりが彼女の横顔を映す。


「こんな毎日でも、いつかはあの頃って言って懐かしむ日が来てしまう。あたしの人生、こんなこともあったけれど、総てを遠くから眺めてみたら、そこそこいい人生だったなって、そう思えるんじゃないかって。そう信じてる。……信じたい」


彼女と目が合う。濁った瞳をしていた。彼女は徐に左手を僕の前に出し、服を捲り上げた。露わになるのは、真っ白な肌。そしてそれにいくつも刻まれた灰色の大小の痣。それから二の腕に並ぶ、黒ずんだ丸い痕……これは——タバコを押し当てた、火傷の痕跡。


「これが……あたしの人生」


彼女はふっと自嘲めいた笑いを浮かべた。


「慰めなんて、求めてないから。同情とか哀れみとか、それだけして逃げたズルい人たちを何人も見てきた。そういうズルい人になってほしくないから、友達には言ったことがない。でも君は違うわ。君なら、あたしを受け止めてくれる。あたしを、ちゃんと見てくれる。そう信じてる。信じたいだけだけど」


たくし上げた服を元に戻す。


「明けない夜はない、って言うじゃん。あたし、傷だらけになりながら夜明けを待ってるの。こんなどうしようもない日もいつかは報われるって信じて」


そう言って彼女はまたネオンの夜景に目を落とす。沈黙が流れた。


 明けない夜はない


——その言葉が僕の脳内をぐるぐる回って——



「明けない夜はないってのは綺麗事だ」


口を衝いた。彼女は顔を上げて、また僕の方を見た。彼女の鋭利な眼差しが僕を貫く。彼女は、僕に何かを求めている。


「明けない夜はないってのはさ、綺麗事だよ」


続けて言葉を紡ぐ。


「そいつは希望なんて美しいもんじゃないよ。今日を放棄するための言い訳だ」


彼女は何も言わなかった。ただ僕を見つめていた。


「僕らがすべきなのは、言い訳を吐いて今日を嘆くことじゃない。今を生き抜くことだ。日の差さない場所でも、夜明けに向かって我武者羅に生きることだよ」


今を、生き抜かなくちゃ——。彼女が滾るような目で僕の瞳を捕らえた。


「生き抜くために、たとえどんな行為に及んだとしても?」


僕はこくりと頷いた。それが君にとって正しいことならば、僕は君の行動総てを受け入れよう。彼女の濁った瞳が次第に澄んでゆき、爛々と輝いた。彼女はそれから僕を抱き締めた。突然のことで驚くも、僕も彼女の華奢な身体を抱擁する。これまで傷つけられてきた身体をせめて勞ってやりたい。そう思った。彼女を助けたい、とも思った。けれど、そんな軽々しい言葉はきっと彼女には届かない。これまで散々期待して打ち砕かれてきたのだろう。期待するだけ惨めだ。もう彼女にとって慰めだとか同情だとかは、ただ自分をより一層傷つけるだけの言葉になっていたのだろう。だから、彼女はあの時、自分の心のことを、下手に触ろうとすると崩れてしまう『砂の城』という表現をしたのかもしれない。そう考えた。僕は彼女をこれ以上傷つけたくない。傷つけずして救い出すにはどうすればいいだろう。そんな事ばかり考えてしまう。次は僕の番なのだから。僕の痛みに寄り添ってくれた彼女に、今度は僕が寄り添ってあげなければ。


「シュンくん、痛いよ」


と彼女が照れくさそうに言った。どうやら無意識のうちに強く締め上げてしまったらしい。ごめんごめん、と手を離す。彼女は、ありがとう、と笑顔で言った。それから、二人で手を繋いで地上まで降りた。彼女は駅まで送っていくと言ってくれたが、駅まで行くと、彼女の家が遠くなるので、大通りに出たところで別れることにした。バイバイ、と手を振る。


「またね」


「またね」


彼女は見えなくなるまで手を振り続けていた。僕も負けじと振る。とうとう暗闇に溶けて彼女の姿が見えなくなったとき、彼女の声だけが夜闇に響いた。


「またいつか!」


それっきり声は聞こえなかった。


それが、僕らの交わした最後の会話となった。


【続】



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