第11話 夜明
耳障りな音で浅い眠りから目を覚ました。その音の正体が耳元に置いていた携帯から生じるものだと気づき、それを手に取る。時刻は零時を過ぎた頃。新しい一日を迎えるにはまだ早い。着信はアヤからだった。交換したっきり一切使わずに今に至るのだが、こんな時間に何の用だろうか。未だはっきりしない意識の元、電話に出る。電話の向こうの喧騒が鼓膜を貫いた。祭でもやっているのだろうか。そう思うほどうるさくて、一気に眠気が覚めた。彼女の声はその中でもよく通った。声色だけでも伝わる、焦り。そして深刻な状況。
「ユイが!ユイの家が——」
彼女からの報せに僕はスウェットのまま、携帯だけ持って家を飛び出した。何かをうかうか考えていられる暇はなかった。チャリ置き場に置かれた錆びついた自転車、中学生の時に通学で使っていたものに跨がり、彼女のいる街を目指す。電車ではそう遠くないと感じるが、そこそこ距離はある。自転車で四十分、弱。飛ばしたら三十分でいけるか。零時の空は漆黒だった。人通りは全くと言っていいほどない。ひたすらにペダルを踏み込み、街を目指す。信じたくなかった、この状況を。どうしてこんなことに。焦燥と、不安と、絶望。それから僅かな望み。それらを背負って、宵闇に突進してゆく。しっとりとした夜風が全身の毛をそっと逆撫でていくようで、うざったい。クソ野郎。粟立つ肌に大丈夫だと言い聞かせる。全然大丈夫じゃない時に、人はどうしてこうも自分を信じてしまうのだろう。ただ信じていたいだけなのかもしれない。たった一筋しかない光にも縋っていたい、今の僕がまさにそれだった。暗闇をぼんやりと照らす青白い街灯の中を走り抜ける。ただ祈る。何に?分からないけれど。お願いだ、優しい光を奪ってしまわないで。どうか、どうか——。
ネオン街の隅。漆黒の天を焦がすように紅蓮の狂気が昂っていた。そこにあったもの総てを喰らい尽くすように、猛り狂った火炎が一帯を覆い尽くしている。明滅を繰り返す異常なほどに赤いランプが一層の不安を煽る。境界線の際まで押し寄せる野次馬。やい、燃えてら、燃えてら。祭囃子に似た、それに悪意を上塗りした声々。それらをかき分けて進む。あぁ、どうして。どうしてこんなことに。アヤの姿を見つける。歩道の端で震えていた。いつもは大きく見える身体が、やけに縮こまって見えた。僕の姿を見るなり、彼女は駆け寄ってきた。
「ユイの、ユイの家が、燃えてるの」
落ち着きをなくした彼女が僕の胸に飛び込む。
「ユイから電話があったの……その時、彼女の様子がいつもと違ってて。おかしかったの。心配になって。胸騒ぎがして。それで、それでね、来てみたら……こんなことに——」
やっとのことで全部を伝えきったかと思うと、彼女は泣き出した。独りで我慢してきたもののストッパーが外れたのだろう。肩を震わせて慟哭した。服に彼女の悲しみが染み渡って、僕の肌を侵す。僕は彼女の背中を擦ってやるくらいしかできなかった。この場で崩れ落ちてしまいかねなかった。けれど、何とか平常心を保って僕はその場に直立していた。煌々と燃える街。消火も順調ないらしく、先程から大量の水が放出されているが、その炎を一向に仕留められそうになかった。つい数時間前別れを告げた彼女の姿を思い浮かべる。憂いを浮かべた横顔。鉛を背負った背中。痣だらけの腕。それから明るい表情。またね、そう約束して別れた。これが、君の選んだ結末なのか。なぁ、また、会えるんだよな。あの火の中で倒れちゃいないよな。燃え尽きて炭になっちゃいないよな?なぁ、ユイ——。どうか、助かって。どうか、生きていて——。
赫々と燃え盛るあの部屋。あそこで一体何があったのか。僕らは知る由もない。闇よりも深みを極めた黒煙が、火の海から天に立ち上ってゆく。夜はまだ明けそうになかった。そればかりか、僕らの夜はこれからますます深くなっていこうとしていた。
【続】
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