第9話 燦然

 休日の午前。ユイが僕の家に来た。駅前まで迎えに行って、そこから二人で。途中でコンビニに寄ってスナック菓子を買い込んだ。ハバネロを練り込んだスナックを彼女は躊躇なくカゴにねじ込んできた。


「あたし、辛いのとか結構いけるんだ」


なぜか得意げに彼女は話す。


「何?強がり?」


「なわけないじゃん。あんたと張り合ったところで何になるっての」


はいはい、と適当にあしらう。


「ドリンクも買ってこ」


そう言って、彼女はレジでキャラメルマキアートを頼んだ。僕はレギュラーコーヒーにしておく。カップを受け取って、マシンに入れる。


「このコンビニのコーヒーってマズいらしいよ」


隣で彼女がぼそっと言う。


「酸味ばっかりが強いんだって。飲むんなら何か混ざったやつの方が美味しい」

「会計前に言えっての。ていうか僕も常連だからそれぐらい知ってる」

「じゃあ何でそれ頼むのよ」

「僕、味覚イカれてるから。これはこれで美味いって思っちゃう」


何それ、と彼女は鼻で笑って

「香り付きの泥水でも啜ってたら?」

と辛辣な一言。ちょうどその時、タイミングよくシューと機械の音がして、それが何だか面白くって二人で笑った。


 彼女を家に入れると、


「割とこざっぱりとしているのね」


と内観は好評を得られた。僕だけで住んでるわけじゃないからね、と言うと


「君だけじゃ汚部屋になっちゃうでしょうね」


と言われた。お母さんは?と聞かれたので、今日は日勤、と答えた。


「女の子連れ込んだら、何か如何わしいことしてるとか思われない?」

「さあ、していたところで特に何も言われない気がする。寧ろ女の子に気があると思ってくれるならそれはそれで好都合だ」

「カムアは?してないんだ」

「まだ時機じゃない」


時機ねぇ、と彼女は何か言いたげだったが、それ以上詮索してくることはなかった。


「じゃあ、早速始めちゃいましょうか」


彼女は手を叩いて開始の合図を告げる。そうだ、今日はただダベるために彼女をここに呼んだのではない。正当な理由があってのことなのだ。テストに向けて勉強する、それが本日の企画趣旨である。自分の家では集中できないからいつもは図書館で勉強しているそうなのだが、今日は書庫点検のために閉館だという。それゆえ勉強空間を提供してほしいとのことだった。最初は他にあたってくれと思ったが、かなり強引に丸め込まれ僕は渋々それを受け入れた。まぁこういうのもたまにはいいだろう。リビングの机に二人向かい合ってテキストを取り出した。彼女の手が紙の上を動き始めた。僕も負けじとペンを走らせる。


 *

 *

 *

 「疲れたー」


と言って彼女がペンを投げ出したのが、三時を少し過ぎた頃だった。僕もそれに同調するように中断する。気づけば結構長い時間ぶっ通しでやっていた。こんな集中力が続くとは正直思っていなかった。彼女が側で尋常でない勢いで課題を進めていたので、自分もその勢いに飲み込まれ勉強してしまった。なかなかいいじゃないか、と思ってしまった。


「三時の休憩、しよっか」


僕の誘いに彼女は待ってましたと言わんばかりに食いついた。スナック菓子をパーティー開けして勉強道具を避けた机に並べる。コーヒーはさっきまでの勉強の間に全部飲み終えてしまったので、自分で淹れることにした。キッチンに立って薬缶に水を注いで火にかける。彼女もいつの間にか側に来ていて、僕の所作を見ていた。IHじゃん、いいなぁ、と彼女は羨ましがった。そこかい、と突っ込みたくなる。程なくして湯が湧き、それをセットしたポットに回し入れる。今日の豆は少しお値段高めのブレンド。なんたって香りが良い。花のような爽やかな匂いだ。頑張った自分へのご褒美、的なコーヒーだ。


「さっきの話だけどさ。君にとって時機って何なの」


コーヒーが抽出するまでの時間を彼女が埋めていく。


「まだ今がその時期じゃない、それだけのことだよ。深い意味はない」

「肝心なとこを避けたね」


彼女がピシャリと言い返した。すぐに自分の返答が冷淡だったことに気づいたのか、ごめんと小さな声で謝った。


「問い詰めたいわけじゃないの。君が話したいことじゃないなら、話さなくていい。あたしはただ君がどういう考えをしてるのか知りたいだけ。……ただの、そう、興味本位だから。君は、何を待ってるの?」


早口に話す彼女の目は、僕に何かを訴えようとしていた。何を、かは分からなかった。でも確かに一つ分かったことがある。今が、その時であるということ。彼女に僕の理念を話す時機であるということだ。


「自分の荷物を背負わせるに値する人間かどうか、判断がつくとき」


なんて上から目線な物言いだ、と自分で笑ってしまった。


「僕の総てを明かしてしまってもいいって、そう思えるとき」


と綺麗な言葉で言い換えてみた。何だか気取った言いぶりで背中がむず痒くなる。


「じゃあ、あたしのことはそう思ってくれてるってこと?」

「……まぁ、そういうこと、かな」

「君は、あたしのことを認めてくれてるんだ」


なんか嬉しいかも、と彼女は言った。


「最初は誤算だと思ってた。けどね、今なら、これは機会なんだって、自信を持って言える」


僕は彼女の目を見つめる。透き通った混じり気のない瞳がこちらを見ていた。単なる好奇心は見て取れなかった。単純でない、かと言って特別なわけでもない。純粋な心。それに彼女は突き動かされている。僕を知ろうとしてくれている。受け入れようとしてくれているのだと、分かった。僕らが持つものが同じ痛みでないとしても、彼女なら分かってくれる、いや分かってくれなくともいい。ただ僕がここにいることを認めてくれるだけでいい。それだけで充分だ。


「聞かせて、君のこと」


彼女の唇が滑らかに動いた。


「君が、どうして春を鬻いでるのか」



 *

 抽出されたコーヒーをカップに注いで、それを持って僕らはベランダに出た。僕はそこで語った。彼との幸福な日々を。幸せを噛み締めて、二人手を繋いで歩んできた道を。あんなこととか、こんなこととか、思い出ばかりが溢れ出す。そういや、こんな事があって。おかしいだろ?面白いだろ?思い返すだけでも顔が綻ぶ。日が傾いて、空が夕焼け色に染まるまで、僕はしこたま彼について語った。彼女はただうんうんと頷くだけだった。それだけでよかった。それが心地よかった。今だけはあの頃に戻ることができるような、そんな心地さえした。けれども、終わりは刻一刻と迫る。彼との思い出が底をついてゆく。彼と最後にしたセックスのことを思い出した時、もう次のエピソードがないことに気づいた。彼との思い出は、それっきりだった。あの日を語り尽くして、総てが終わった。僕らの記憶の終着駅に辿り着いてしまった。僕の作り出した沈黙が、僕を責め立てる。動揺を悟られないように、縁に置いたカップに手をかける。とうに冷めたコーヒーを口に含んだ。美味いと味わう振りをする。味なんて感じない、彼との記憶も――。


「ずっと、彼を探してるんだ」


そう、僕はずっと彼を探していたのだ。彼の幻影を追っていた。


「彼じゃなくてもいい。擬物でもいい、そう思った。新しい相手を見つけて気を紛らわせようと必死だった」


けれど——


「けれど、誰といてもやっぱり彼と重ねてしまった。目の前にいる相手じゃなくて彼を求めてしまった。彼以上の誰かにも会えなかった。身体を重ねても、どれだけ別の人で汚そうとしても、彼のことを思い出してしまう」

思春期の失恋にしては重度だろう、と自嘲する。


「彼のことを、忘れたいと思った」


忘れてしまいたい。彼との記憶を抹消して、何もかも白紙に戻してしまいたいと思った。そのためだったのだ。


「だから、セックスを感情のないものにしてしまおうと思って。ただの性欲と金だけのものにしてしまおうと。そうしたら彼のことを、あの愛に酔って重ね合わせた感覚も麻痺してしまうんじゃないか。そう思ったのが始まりだよ」


僕は繰り返す。彼女に聞かせるためではない。僕に認めさせるため。逃げ場を無くすためだ。


「それが僕の堕落の始まりだ」


彼女がその時、ようやく口を開いた。


「君は、彼のことが大好きだったんだね。彼以外では満たせなくなるほど、彼を愛してたんだ。素晴らしいことだよ」


あぁ、そうだ。僕は彼を全身で愛していた。彼を骨の髄まで愛していた。だから、僕は壁を乗り越えられなかった。愛は道を遮る障壁だった。僕は壁にぶち当たって、それから液状化した地盤に呑み込まれていった。


「でもね、だからって、こんなことで傷を癒やすことなんてできっこない。きっとこれから散々に傷つけられる。愛の代替を求めて身体を売るのだけはやめて。身体を買う人に純粋な愛を求めてくる人がいるわけない。この感覚に呑み込まれて廃人になって、使い捨てられて死ぬのが落ちよ」


「分かってるさ。そんなの百も承知だ。それでもいいと思った。ゆっくりと朽ちて死んでいこうって、そう思ってここまでやってきた。生きる勇気も死ぬ勇気もなくって、ただ流れに身を任せて生き永らえてきたんだ」


僕の世界は灰色だ。汚れてしまったものを元通りにできるわけがない。お先真っ暗。あとは時が来るのを静観していればいい。


そう思っていた。そう思っていたのに。


どうしてだろう。僕はまだ此処に残ってありのままの姿を振る舞っていたかった。僕は気づいた。未練ができてしまったのだと。


「君のせいだよ」


そんな言葉が口をついた。


「君のせいだ」


君のせいで、僕は、こんなにも醜い自分をこの期に及んで許してしまいたくなった。愛してしまってもいいような気がした。君になら全部見せてしまってもいい。暴かれてしまってもいいと、そう思ってしまったのだ。


「僕は、もう無理なんだよ。もう遅いんだ」


言葉で必死に否定してみても、その感情を隠し切ることは不可能なように思われた。期待するだけ無駄だと、そう思っていた筈なのに、どういうわけだか根幹が揺らぎ始めていた。この世界に迎合などはしたくないが期待はしてみたくなっていた。する価値があると不覚にも思ってしまった。馬鹿。何考えてんだ。こんな奴の言葉に、言動に、優しさに、温かさに惑わされて。結局何も変わりやしないんだよ。僕はすっかり汚れて、染まっちまってるんだ。この世界を真っ当に生きる術を失くしてきた。無理だ。無理なんだよ。今更元の道になんか戻れないんだ。あとはとことん堕ちてゆくだけなんだ——。


「君は、まだ間に合う。引き返せる」


彼女が言った。僕は、大丈夫なんだろうか、まだ此処にいても、笑っていても。僕自身を晒していても。やっぱり僕には似つかわしくないよ。眩し過ぎる。君は、優し過ぎるんだ。


「だから、こっちに来てしまわないで」


それから、こう続けた。


「君には、日の当たるところが似合ってる」


彼女の顔が黄金に染め上げられていた。ただ眩しくって仕方がなかった。思わず彼女から目を逸らす。視線の先に広がるのは見慣れた筈の閑静な住宅街。寂れたアパートの二階から見る景色は美しかった。そんなこと、今まで思いもしなかった。灰色の景色が優しい色彩を纏っていた。取り零してきたものを拾い集める時間はまだ充分にあるらしい。目頭が静かに温もりを帯びる。春風が頬を伝う雫を掬うようにそっと肌をなぞった。


【続】



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