第8話 切迫
ある日突然アヤに呼び出された。
「昼休み、屋上の階段に来てよ。一人で」
唯には聞こえないように声を潜めて、彼女は言った。約束通り一人で昼休みに屋上へと向かう。彼女が僕に分かるよう、軽く手を上げた。彼女も一人だった。屋上には上がれないようにドアに鍵がかかっているため、この場所に人が来ることは早々ない。階段はドアを隔てたところにあるため、密会には適した場所だ。
「何?タイマン張るの?」
と茶化して言ってみる。
「それなら校舎裏に呼び出すわ」
「分かった。じゃあ告白だ」
「あんた一回絞められたいの」
彼女から殺気が漏れていたのでここまでにする。
「冗談だって」
「今日は、真面目な話だから」
強気な彼女らしくなく、少し俯いた。
「もしかしてさ、ユイのこと?」
彼女はこくりと頷く。
「長いこと仲良くしてるんだけどね、時々ユイとの間に壁が見える。私が入るのを拒んでいる何か、バリアがある気がするの。好きで隠し事をしているんじゃないってことは分かってる。多分あの子のことだから、私が秘密を知ってしまったら軽蔑されるんじゃないかとか、友達じゃなくなるんじゃないか、とかそんなことを考えて言わないでいるんだと思うの。私はユイの考えを尊重したい。ユイに無理強いさせるようなことはしたくない。それに、余程大反れたことでもない限り、あの子を嫌いになることなんてない。まぁ、あの子はそんなことができるタマじゃないわ。私が一番知ってる。私は願わくばこのままの関係を、ずっと続けていたい」
彼女は僕を真っ直ぐ見て続ける。
「あんたが私達と絡むようになって、ユイが少し変わった。どこがって言われると分からないけれど。どこか遠いところを見ていることが少なくなった気がするの。変な言い方だけど彼女がちゃんとここにいるって、そんな感じがする」
だからね、彼女は言った。
「不本意だけどあんたにユイを頼みたい。ユイを受け止められるのは多分あんただけ、あんたならユイをここに留めてくれるんじゃないかって、そう思ってる。絶対にできるとは言い切れないけど。確信はないの。私の勘。でも結構鋭いんだから侮らないほうがいいよ」
たまには良いことを言う奴だ。友達思いなんだなという事が伝わってくる。けれど、そんな感動もそこまでだった。加えて彼女は言う。
「あ、言い忘れてたけど、ユイの彼氏に収まろうなんて気を間違っても起こさないでよね」
「そんなのこっちから願い下げだ」
と大きな声で言うと、彼女はふっと笑った。
「あんたも、変わったね」
「……そうかな」
「あんたの印象、最初は本当に最悪だったから。根暗で口数も少ないし、全然笑わない。存在感がない」
「事実だけど、改まって言われると堪えるな」
「ごめんごめん。けどさ、今のあんたは、生き生きしてる気がする。笑った顔、嫌いじゃない」
彼女の声は心做しか優しかった。諭すように僕に言った。
「僕は、変われるかな」
本当のところは不安でしょうがなかった。強気な物言いをしてきた仮面が滑稽にも剥がれ落ちる。無様な僕の顔が晒される。これまでただ惰性で生きてきた。自分の人生に意味なんてない。これ以上どう足掻いたって良くはならない。もうどうにでもなっちまえとヤケクソになっていた。けれど、今、この時がどうしようもなく愛おしく思えてきている。誰かと過ごす、何気ない日常。他愛ない会話。意味なんてなくったって楽しければいいんじゃないかって本気で思い出した。そう考えると突然怖くなる。
失うことが怖い。実に呆気なく人は死ぬ。何度も思い知らされてきた。テレビに出ていた俳優は飛び降り自殺。売れない小説家は焼身自殺。買春をしていたサラリーマンは飲酒運転の車と事故って死んだ。人は脆い。世界のあらゆるところで、そうやって人は死んでゆく。そんなものに僕の全部を注いでしまっていいんだろうか。
喪失は死に限らない。あの人のことをまざまざと思い出す。僕が総てを賭して愛そうと決めた彼。彼は僕を裏切った。言葉一つさえ残さず、消えてしまった。最後に見たあの人の目に、僕の姿はもう映っていなかったのかもしれない。これからのことなんて誰にも分からない。そのうちに人は変わっていって見知った人さえ別人になってゆく。慕情も友情も、愛さえもなかったことになっていく。そんな残酷な世界に、僕は耐えられるだろうか。僕は、本当の意味で変わることができるだろうか。分からなかった。すぐ身近に喪失が切迫しているようで、ただそれを恐れることしか、僕はできなかった。
【続】
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