第6話 秘密

 「あたし、アイスコーヒーで」


彼女はメニューをろくに見ずに即決した。


「ぼ、僕もそれでお願いします」


彼女の後に続いて慌てて注文する。

窓際の二人席。彼女と向かい合って。どういう状況なのか未だに飲み込めない。


「これ以上何か僕達が話すことってあるっけ?」


小声で聞いてみた。はぁ?と彼女が声を荒げる。


「君って、自分に利害がある話しか聞かないわけ?普通にダベるとか、そういうことってできないの?サイテー」


散々な言われようだ。そこまで言われたらこっちも黙ってはいられない。


「じゃあ、君は友達でも何でもない人からある日突然カフェに誘われて、気乗りするのかい」

「ナンパじゃん、ソレ」

「いや、君がしたことなんだけど……」

「大丈夫、君のことはタイプじゃないから」


ばっさり斬り捨てられる。あたし、彫りの深い顔が好きなの、と聞かれてもないのに彼女は語り出す。かと思えば、


「てか、さっき友達じゃないって言わなかった?心外なんですけどー。あたし達友達じゃん!」


と急に逆上し始めた。情緒が忙しい奴だ。


「いつ友達なんかになったんだよ」

「あたしと話した人は全員友達だから!」

「それ通用するのは小学生までだろ」

「ずぶ濡れの君を介抱してあげたんだよ!」

「その節はどうも。ただの顔見知りなんかに」


こうなったらとことん意地悪を言って困らせてやる。そうすれば直に彼女も諦めるはずだ。別にこれは好きな子をからかうみたいなピュアなものじゃない。僕の性格が捻じ曲がっているからだ。断じて心を許して、馴れ合っているわけじゃない。その筈なのに、図らずも息ぴったりな掛け合いで、なんだか僕もノリノリになっているみたいじゃないか。彼女の思惑通りになっているんじゃないか、そうはさせるかと僕は彼女に告げる。

「第一、僕らは友達にはなれないね」

「どうして」

「僕らは対等じゃないよ。友達ってのは対等な人間関係のことだ。力関係が違ったら、それは従属関係だね」

「ちょっと意味わかんない。あたし達の何処が対等じゃないっていうのよ」


そもそも、どっちが支配者側?と彼女はてんで理解していないようだ。思わずため息をつくと、こらそこ!と彼女が指差す。


「どう考えても君が支配者だ。君は僕をどうとでもできる力を握っているだろう」

「だからー、その力って何よ」


もう、どこまでも察しの悪いやつだ。


「僕は君に弱みを握られているだろう」


彼女は息を呑んだ。


「ああ、そういうことねー」


意外だったのだろうか。彼女からは、次なる反撃が出てこなかった。その代わり、

「弱み、かぁ」

と力なく呟いた。そうだ、弱み。彼女は隠し玉を持っている。彼女は僕の秘密を知っているのだ。僕が売春をしているということ。それも男に。この秘密は、僕の人生をいとも容易くぶち壊してしまえるような爆弾になりえる。


えーと不満の声を漏らしながら、彼女椅子の背にもたれかかった。

「じゃあ、あたし達が友達になるには——」


「そう、君の弱みを僕に白状すること」


彼女は笑った。

一瞬、その笑みが何の感情なのか分からなかった。ただ無自覚に緩んでしまっただけのようにも見えたし、余裕のある表情にも見えた。けれど、それらは総じて見当外れだった。


「――あたしは弱みだらけだよ」


彼女の声で、僕らを取り巻く空気が変わった。さっきとは打って変わって、酷く静かで細い声。これは本当にさっきまでの彼女なのか、疑いたくなるような落ち着き方だった。彼女はまた、微笑を浮かべる。普段の笑顔とは違う。ああ、この微笑の意味は自嘲だ。

 これは彼女の別の一面とでも言うべきものなのだろうか。これまで接してきた彼女からは到底感じられなかった闇を、今感じた。これまで、と言っても、付き合いの浅い僕に分かることではない。でも普段は見せない様子だということは確かだった。気丈に振る舞うユイ。誰にでも友好的なユイ。僕にやたらと絡むユイ。その総てが、今目の前にいるユイの姿と重ならない。ここにいるのは、弱さを纏うユイだった。


「あたしはね、本当はとても脆いの」

彼女は悲しそうに目を伏せる。


「弱くて、弱くて、つんと弾きでもしたらあっという間に壊れてしまう。それでも、これまで必死に守ってきた。本当の感情をひた隠しにして、誰にも触れさせないようにして、今日までやってきたの。


そうね、たとえるなら――これはきっと砂の城」


砂の城――その不思議な言葉が幾重にも反響して聞こえる。


「触れたら一瞬で崩れてしまいそうな砂の城が胸の奥にあるの。そこに閉ざされたままのあたしがいる。残酷な感情が、ここで一緒に眠ってる」


胸に手を当て、そうして、今度は僕を見た。彼女の瞳が、僕の瞳を捕らえる。目を離すことができない。ねぇ、と彼女が僕に問う。


「それでも、あたしのことが知りたい?あたしを、知ろうとしてくれる?」


沈黙が流れる。言葉が出てこなかった。何を言えばいいのか分からなかったのだ。ただ彼女にとっては深刻な問題なのだということは分かった。だからこそ、僕は答えあぐねたのだ。果たしてここで中途半端に何か言っていいものか。まず、彼女が何を求めているのか分かりかねた。彼女のことを知りたいか――それは勿論対等であるために、彼女の秘密について何か握っていたいとは思う。彼女も、僕のように何かとんでもない爆弾を抱えているのだろうか。まあ、人は誰しもひとつやふたつそういうものを抱えているものだし、彼女にあったって何ら不思議じゃない。だが、彼女の言い分だと、その秘密を明かすことで、「砂の城」は崩れる。この「砂の城」が何を意味するのか。それが分からない。ただ、薄っすらと嫌な予感がする。背中から変な汗が吹き出す。あの言いぐさは、まるで僕を、何か重大なことに加担させようとしているようだった。踏み入れてはいけない線が見えた。これに安易に答えるべきじゃない、そんな感じがしたのだ。


 沈黙を破ったのは、彼女だった。


「ごめんね。脅すようなこと言って」


僕はやっぱり何も言えなかった。


「君と似ている気がしたの。君なら分かってくれるんじゃないかって思った。傲慢だよね。笑える。ほんと嫌だ、あたしってきもいよね」


場を取り繕うように彼女は笑う。から笑いだとすぐ分かる。彼女の目は笑っていなかった。


「さっきの、忘れちゃって。あたしはさ、ただ君と普通に話をしてみたかっただけだから」


気まずい沈黙を切り裂くように店員が僕らの世界に入ってきた。アイスコーヒーが2つ。氷がカランと鳴る音をやけにうるさく感じた。


 コーヒーに口をつけたあと、彼女はいつもと同じテンションで話しかけてきた。これまでのことがなかったかのように振る舞う彼女に戸惑ったが、それでもさっきよりは断然マシだった。僕もとにかく、彼女の裏の顔は全部嘘なんだと思いたくて、このときばかりは会話に積極的に挑んだ。いつもの明るい彼女こそが、本当の姿なのだと、そう思いたくて必死だった。

 だが、そんな必死さもいつの間にか忘れてしまえるほど、僕らは楽しく話してしまった。中身は本当に他愛のないやり取りだ。でもそれがよかった。今までこんなくだらない雑談をして楽しかったと思ったことなんてなかった。これが初めてだ。それは一重に彼女がコミュ力に長けているからだろう。返しが下手ですぐ会話を終わらせてしまうような僕とでも、彼女にかかればどんどん話が広がってゆく。これはある種の才能だなと思った。

 今日の僕は自分でも不思議なくらいよく話した。他のクラスメイトとならぎこちなくなってしまうような会話も、彼女となら話せてしまう。やれ勉強がどうのとか恋愛がどうのとか、普通の高校生の会話。時々、その「普通」の域を外れる話もあるけれど。

 彼女が理想のタイプを語っていた時、うっかり口を滑らせて自分も好みも言ってしまった。

「無精髭がうっすら青いのとか……」


そこまで言ってしまって、しまったと思った。つい話の流れに乗って口を滑らせた。無精髭って、それは男じゃないか。何言ってるんだ、僕。そういうことはデリケートな話だから、人には言わないも決めていたのに。まだ誰にも、母親にさえこの事実を打ち明けていないのに。よりにもよって付き合いの浅い人に告白まがいのことをやってしまうなんて……。


「無精髭……?」

彼女は案の定そこで首を傾げた。さて、どうする。どう言って弁明しよう。ここから女子が好きだという流れに持っていくには、どうすればいい……と必死に打開策を考える努力も虚しく、彼女が僕に問いかけた。


「君ってもしかして……その、そういうこと?」


彼女にそう聞かれて、僕は固まる。だが、ここで彼女の追及を逃れられる自信はなかった。仮にここで逃げ切れたとして、この先どこかでボロが出たらそれはそれで困る。それなら、付き合いの浅いうちに言ってしまってもいいんじゃないか。それでダメなら、僕らの関係もそれまでだ。僕は彼女が離れていったって全然構わない。むしろそっちの方が助かる。そもそも今日ここに来たのだって渋々とだし。


よし。

 

そうして、僕は覚悟を決めた。


「うん、そういうことだよ」


だが、予想に反して彼女の反応は実に薄いものだった。

「へー、そうなんだ」

普段と何ら変わりない相槌。普段の彼女なら、もう少しオーバーなリアクションをとるのかと思っていた。彼女は特に驚いた様子を見せなかった。


「引いた?」

と聞いても、別に、と彼女はさらりと言った。


「あたしもいっしょ、男の人が好き」


うちら恋バナできるじゃん、とあっけらかんと言ってみせる。そういう、さっぱりした反応がいい。おかげで気が楽になった。


「クラスの中で好きな子とかいるわけ?」

「そういうことは考えないようにしてる。色々と面倒だし。あと僕は年上が好きだから」

「それでおじさんのサポしてるの?」


と彼女が驚いたように言う。


「ちょっと大きい声出すなよ」

彼女が思いの外堂々とそんなことを言ってのけたので、僕は人差し指を口元に当てて彼女を制する。

「好きだからってのはまぁなきにしもあらずだけど、それは単に性的に魅力を感じるだけであって、別に恋人探しとかそんなことのためにやってるわけじゃないから」

「なんだ、安心した。お金で未成年を食う人にまともな人なんていないんだからね。用心した方がいい」

「分かってるって、そのくらい」

「どうして、そういうの始めたの?」


またそんなことを。結局そこに繋げようとしてくる。


「言いたくない」


そう言うと


「そっか、じゃあ話変えよっか」


彼女はやけにあっさりと引き下がった。


 あっという間の時間だった。コーヒーを飲み干した後に残った氷も溶けてしまっていた。


「そろそろ、出よっか」


彼女は立ち上がった。僕が払うよ、と言うと

「無理言って付き合ってもらったわけだし、あたしが払うよ」


そう言って、僕に反論する間も与えず、レジへと駆けていった。後を追うとまた厄介なことになりそうだなと僕は渋々引き下がり、店の外で彼女を待つ。


 暫くすると彼女が出てきた。

「お待たせ、先に帰ってるかと思った」

「そこまで薄情な奴じゃないよ」


ふふ、と彼女は笑った。


「駅まで一緒に帰ろっか」


多分、今日生まれて初めて人を誘った。


 改札を通り抜けると、電車が既に来ていた。余裕で座れるほどの空き具合だった。彼女と二人掛けの席に座る。此方側に行く人の数は反対側より少ない。大概今乗っている人が行く先はあの街なのだろう。サラリーマンの割合が多い。誰もが週の初めを憂いているようで、今日頑張った自分へのご褒美として街に繰り出すのだろう。既にネクタイを緩めている人もいた。


「シュンくんはどの駅で降りるの」


「三つ目」


そこで会話は途絶えた。彼女はずっと窓の外を眺めていた。夕日に照らされて灰色だったはずのビル群がオレンジに染まっている。ねぇ、と彼女に話しかけてみた。彼女は外の景色を見たままで応えなかった。あのさ、と僕は言った。


「今日、楽しかった」


彼女は応えない。


「君の全部を受け入れられるかなんて、まだ僕には分からない。それでも……」


それでも——


「君の弱みを今ここで知らなくったっていいんじゃないかって気づいた。君の痛みから目を逸らそうってわけじゃない。時期尚早だ。今早急にここで君の秘密を暴かなくていいってこと。君が話せるとき、話したいときになったらでいい。それほど僕を信頼してくれるのなら。無理にこっちから探りに行くようなことはしないよ。だから……」


だから——


「まずは、その……友達ってやつになろうよ」


まさか自分がそんなことを言う日が来るなんて思っていなかった。一生訪れないかとも思っていた。初めて、僕はその言葉を口にした。口にするのも恥ずかしいような言葉だけど、無性に使ってみたくなった。彼女となら、なれそうな気がした。なぜだろう。なりたいと思った。


「君はほんとに不器用だね」


彼女がこちらを向いていた。夕日が窓から差し込み、彼女の顔を照らし出した。


「あたし達、もうとっくに友達じゃん。ね、シュンくん」


満面の笑みが、其処にあった。


「ありがとう。……えっと、白嶺さん」

「名字呼びって、なんか堅苦しい。ユイでいい。ユイって呼んでほしい。友達なんだから」

「分かった。えっと、じゃあ……ユイ」

「照れるなってー」


また、彼女の口元に笑窪ができた。


【続】



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