第5話 約束
また、憂鬱な平日が始まった。休んでしまおうかと思ったけれどやめにした。学校では至って真面目な生徒という体を装っているので、そのイメージは保っておきたい。些細なことで注目を浴びたくないというのも理由の一つだ。自意識過剰と言われるかもしれないが、やはり徹底して影の薄い存在でありたい。誰の記憶にも残らなくていい。少なくともあんな能天気野郎どもと馴れ合うつもりはさらさらない。ハンガーにぶら下がったカッターシャツがやけにパリッとしていて、袖を通すと死刑執行のような心地がした。
学校が嫌いだ。
相容れないものが多過ぎるのだ。僕自身がもっと寛容になればいいんだろうが、これでも許容範囲を越えて受け入れている。くだらない事に全力を注ぐ馬鹿なクラスメイトに飛び交う生産性のない会話、受験のためだけの勉強、理由もなく居座り続ける校則に、統一こそ美しいという信条、自惚れ教師、喧騒の止まない教室。全部我慢している。目を瞑って見ないふりを決め込んでいる。こんな箱に押し込められていると気が狂いそうになるものだ。よくやっている方だと自分では思う。残り一年の辛抱だ、そう言い聞かせて、窮屈な詰襟を羽織る。制服の堅苦しさも嫌いだ。ただでさえ息をしづらいというのに余計締めつけられるような心地がする。ネクタイがないだけマシなんだろうか。あれは本当に首を絞めているみたいだ。自分じゃしたことはないけれど、客が締めているのを見るとこっちが苦しくなる。あれじゃまるで首吊り用のロープだ。疲れ顔のサラリーマンなんかがしているとますますそう見える。あの窮屈そうな首元を見るたびに、将来真っ当な仕事をしていける自信がなくなる。まあその前に、とっくに死んでいるかもしれないけど。
なんてことを考えながら、リュックに教科書を捩じ込む。背負ってみると、大した量は入っていないのにずっしりと重かった。溜まりに溜まった憂鬱を抱えて、靴を履く。行ってきます、もぬけの殻になった部屋にしばしの別れを告げて家を出た。
*
教室では早くも笑い声が響いていた。月曜日の朝っぱらから呑気なものだ。特に親交のない彼らの横をすーっと通り抜け、自分の席に座る。窓側の一番奥。一人でいるには丁度いい場所だ。鞄を横にかけて突っ伏す。だるい。早く一日が終わらないか、そんなことばかり考えてしまう。
「おはよ」
声の主は奴だった。そうだ、彼女もこの教室なのだ。おはよう、なんて、わざわざ僕の方まで来て言うことなのか。戸惑いつつも返そうかと思ったが、一昨日の件もあって気まずいので寝たふりを決め込んだ。
「ユイ、何やってんのー。ねぇ、ほら、これ見てー」
と前の方で彼女を呼ぶ甲高い声がした。ボブカットの女子がこっちを見ている。ユイとよく一緒にいる子だ。一応クラスメイトなので名前くらいは知っている。確か、
四時間の授業が終わって、昼休憩に入った。皆、続々と教室から出ていく。この学校は中庭や屋上などが開放されるため、そこで弁当を食べる人が多い。また食堂も付いていて、破格の安さで美味いとは言えない飯を提供している。そのため、教室で昼休憩を過ごす人は思った以上に少ない。それを逆に僕は利用している。今日も随分と出払って、僕と数人、所謂陰キャと称される者たちが黙々と教室で飯を食っている。構内で唯一安寧を感じられる時間だ。今頃食堂なんかはごった返していることだろう。菓子パンに齧り付く。安い味だが、僕にとって重要なのは味ではなく食うという生きるための行為なのだから、気にしない。パンをくわえながら携帯で暇潰しのゲームをする、というのがお決まりの過ごし方なのだが、そこに一人、邪魔者が乱入してきた。
「ここ、空いてる?」
と僕の前の席を指差す。さぁ、と首を竦めてみせる。彼女は僕の返答などお構いなしに其処に座る。僕の方に身体を向けて。そして、ぶら下げていたビニール袋の中身を僕の机の上に出す。惣菜パンがごろごろと出てきた。
「あたし、カレーパン結構好きなの」
彼女は聞かれてもないのに勝手に喋り始め、そのうちの一つを取って豪快に封を開けた。それにかぶりつく。なんと大胆。口が小さいくせに一気に食べようとするものだから中身の具が溢れ出した。タンマタンマと独り勝手に慌てている。言わんこっちゃない。
「揚げないカレーパンってのがね、最近購買に出てたの。最高じゃない?脂っこいコロモつきのものって敬遠しちゃうけどさー、揚げてないなら罪悪感なく食べられちゃうじゃん、ぱくっと」
食べ終わってから弁明するようにそんな事を言い始めた。本当に意味が分からない。言動の何もかもが理解できない。なぜ今日に限ってここで?
「君は何がしたいんだ」
思い余って聞いてしまった。返ってきたのは
「君とご飯を食べたい」
という説明になっているようでなっていない答え。彼女は二個目のパンに手を伸ばす。
「君は好きなパンとかないの?」
いつも菓子パン食べてるじゃん、と僕の食べ終わったゴミを指差して言う。こちらが問い詰める側だったのに、あっという間に彼女に主導権が握られてしまう。
「そんなものないよ。食えれば何でもいい」
「えー勿体ない。人生損してるよ」
「損も何もあるもんか。食事なんて生きるためのただの栄養摂取だ。それにいちいち味付けして意味付けを図ろうとすることの方が時間の使い方を間違ってると思うがね」
「つまんない人だねー。意味の与え方次第で人生薔薇色にも灰色にもなるっていうのに」
憐れむような目をしてくるのが癪に障る。
「人生薔薇色?笑わせるな。そんなの都合のいい妄想だよ」
鼻で笑って、ついでにこうも言ってやる。
「学校でまで僕に関わらないでくれよ。独りでいたいんだ」
彼女も流石に堪えたようで、分かった、と言って菓子パンを持って席を立つ。
「じゃあ、校外ならいいわけだ」
そう言って不敵な笑みを浮かべる。しまった、そう思ったときには遅くて、僕が反撃する余裕も与えず、彼女はこう言った。
「今日の放課後、カフェでお話しましょ」
*
行かない、という選択肢もあった。掃除が終わるやいなや教室を飛び出して帰ってしまえばよかった。けれど、僕はその行為に及ばず、呆れたことに彼女を待っていた。全く何をしているんだと自分でも思っている。自分が一番よく分かっている。けれど、その僕が反対の方向に舵を切ろうとは思えなかった。彼女と話したいとなぜか思ってしまった。理由は分からない。漠然とした何か。フィーリング。彼女の何処かに自分と同じ波長を感じ取ったから?いやいや、単に面白そうだと思ったから?退屈凌ぎに丁度いいんじゃないかって思ったから。最低な奴じゃないか。事実だけれど。自分で認めてしまうのは癪だった。てなわけで、僕は席に座って大人しく待っていた。彼女はまだ掃除、という名目で友人たちと喋っているようだった。暇に感じて、机の中に入れておいた文庫本をパラパラとめくる。薄汚れて折り目が入った本。だいぶ読み込んだように思われるかもしれないが、内容は全く入っていない。そもそも最後まで読んでもいない。ボロボロなのは中古屋で買ったからだ。一冊五十円で無造作に籠に積まれていたのを一つ取って、それがたまたまこの本だった。所詮読んでいる、という体裁だけのためだ。どんなものでもいい。本に夢中の奴なんかに誰も声をかけないだろう、そういう魂胆でこんなことをしている。内容としては、自己流の哲学を延々と語り続けるナルシストの話だ。冒頭から読者を完全に置いていく、訳の分からない例え話。きっと作者自身を投影した人物なのだろうと思いネットで調べてみると、案の定その手の人だった。哲学者気取りをして自分に酔っている。結局芽の出ぬまま、この一作だけで終わってしまったようだ。唯一の作品も駄作と評され、絶版状態。当たり前だ。こんな本、誰が読むんだ。そして、やはりこういう奴は自分が無価値、誰からも求められていないということにある時気づいてしまう。
『無名の小説家、駅前で焼身自殺!』
十年以上前のことだった。某市の駅近くで、ある男が突然アスファルト一帯にガソリンを撒き、火をつけた。あっという間に彼は燃え盛り、発狂しながら転げ回った。消防が到着したときにはすでに彼は黒焦げで一部炭化していたという。それが彼だった。己の価値を見誤ったナルシストは死を選んだ。せめて最期くらい、爪痕を遺したかったのだろうか。派手な死に方をしてみせた。けれどやはり地方の三面記事止まりだった。愚かな人だ。どうしようもなくて笑えてくる。生きたくはないが、こんな風に死にたくはない。反面教師にして、慎ましく、ゆっくりと時間をかけて死んでゆこう。そう決めた。
チャイムが鳴っ彼女が僕のもとに現れた。
「待ってくれてた?」
「約束を反故にできないタチでね」
ふぅん、と何かを企んでいるような顔をした。
「じゃあ、無理にでも約束を取り付けたらいいってこと?」
「そういうことじゃない!」
「まぁまぁ落ち着いて。教室では話さないんじゃなかったっけ?」
どこまでも重箱の隅をつついてくるような奴だ。でも自然と悪い気はしなかった。小気味いい気さえした。僕らはカフェへと向かった。
【続】
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