第4話 罪悪

 何がありがとうだ、反吐が出る。


 駅前の広場にて。火照った身体を冷ますために蛇口から冷水を摂取しながら思った。僕に懺悔したところで、何になるってんだ。綺麗に終わらせたつもりかもしれないけど、吐き出したってあんたの罪は消えない。僕との関係だってなかったことにはならないんだから。美しくはできないんだから。こちとら感謝される筋合いなんかまるっきりない。ただあんたがべらべら気持ち悪い自分語りしてたからしょうがなく付き合ってただけだ。全部金だよ、金。あんたからの謝礼欲しさ。僕はただの偽善者だ。そんな綺麗なものを受け取ることなんかできっこない。僕だから?そんなわけない。僕以外の人間にだってきっと同じことができた。兎に角僕は綺麗なものが似合う人間じゃないんでね。あんたは勝手に美しくなっていればいい。勝手に幸せになりやがれ。クソ。感謝なんて、クソくらえだ。


 「クソが」


 水を飲み終えて蛇口の栓を閉めようとするが、錆びているためか、なかなか回らない。力をかけて捻ると、上に持ち上げた蛇口から勢いよく水が吹き溢れて噴水となった。回す方向を間違えてしまったようだ。慌てて閉め直すと、自分がびしょ濡れになってしまった。お陰で一気に身体が冷え上がってしまった。あーあ、と独り溜息を吐いてベンチに横になる。何だか全部が面倒臭くなってしまった。人気もないし此処で寝てしまってもいいか、とのんきにそんなことを考えてると、


「そんな所で寝てたら風邪引くよ」


真上から声がした。ふと空を見上げると人の顔があった。思わず跳ね起きる。


「っもうー、危ないなぁ。頭ぶつかるじゃん」


白嶺ユイだった。今日もやけに化粧の濃い顔だ。唇が目を刺すような鮮烈な赤色をしていた。


「何でこんな所にいるんだよ」


彼女に聞いてみた。大方予想はついているけれど。


「それはこっちのセリフよ」


彼女も彼女で、大方僕が此処にいる理由に気づいているようだった。やけに甘い口調で言う。


「その声、嫌いだ」


媚びるような猫撫で声。いやらしさ全開の声。


「分かった。やめればいいんでしょ、やめれば」


と、彼女は僕が釣れないことを分かってか途端に態度を変えて、冷淡な口調になった。


「寝場所、無いなら貸してあげるよ」


ぶっきらぼうに彼女が言い放った。


「大丈夫、家に帰るさ」


と強がって言ったところで、くしゃみをかましてしまった。髪から水が滴り落ちる。先程冷水を浴びたせいだろう。


「君どうしたの。全身びしょ濡れじゃん」


彼女は僕の状況に気づいたのか、驚きの声を上げた。雨なんか少しも降ってないのにこの様。驚くのも無理はない。


「ほんとにうちにおいでよ。タオルとか貸してあげる」


と、彼女は僕が断っても頑なにそう言い続け、しまいには強引に手を引かれて半ば強制連行という形で彼女の家にお邪魔することとなった。


 *

 彼女の家は広場からそう遠くない場所にあった。彼女を歓楽街付近で見かけたのは、単に此処が彼女の居住地だったからか。変な誤解をしてしまったかもしれない、と申し訳なくなる。彼女の家は歓楽街から二本通りのずれた場所にあるアパートの一階だった。ちょっと待っててと言って彼女が部屋に入っていき、僕は外で待っていた。五分ほどでもう一度彼女が出てきて


「うちの人、どうせ朝まで帰ってこないから。上がってよ」


そう言って僕を招き入れた。こじんまりとしている部屋だった。やに臭いから家族に喫煙者がいるのだろうと容易に想像がついた。


「この先は見ないでね」


とドアで塞がれた奥の部屋を指差す。恐らくさっきの間に見られたくないものをあちらに放り込んだのだろう。たばこ臭いのに灰皿も見当たらない。勿論、他人の家を覗き回るような真似はしない。大人しくリビングに突っ立っていた。彼女がタオルを渡してくれたので、ありがたく使わせてもらう。


「全部脱いじゃって、それ」


と彼女は僕の服を指差す。君がいる部屋で?とおどけた口調で言ってやると


「別に君の裸なんか興味ないわよ。床が濡れるの嫌だから、さっさと着替えて」


と替えの服を投げつけられた。灰色のスエット、なんて用意がいい。


「もう帰ってこない人の服だから。帰ったら捨ててくれて構わないわ」


もう帰ってこない人――彼女は意味深なことを言う。スエットは僕には大き過ぎるようで、随分ダボッとしていた。これで家に帰るのも嫌だなぁと思っていると


「オーバーサイズ、流行りじゃん」


キッチンの方で彼女が笑った。そのままどうしていいのか分からず立ったままでいると、座ればいいのに、と言って彼女がカップを二つ持って戻ってきた。ホットミルク、とテーブルの上に差し出される。

「濡れた服はビニール袋に突っ込んでおくからね」

ありがとう、ともごもごと言うと、割と素直じゃん、と誂ってきた。


「で、痴話喧嘩でもしたわけ?」


彼女が自分の分のホットミルクを飲みながら聞いてきた。


「違うよ。噴水浴びてたのさ」


と返すと、何それ、とまた笑った。


「てっきり女に水でもかけられたのかと思った」


「ハズレ、残念でしたぁ」


とびっきりウザい言い方をしてやると、君って結構面白いんだね、と彼女が言った。心外だな。


「学校じゃいつも独りだし、話しかけるなオーラ出してるし、近寄りにくいと思ってたけど、案外そんなことないじゃん」


「独りの方が性に合ってるんだ。こんな卑屈な人間、群れるには向いてない」


君みたいな人間が羨ましいよ、と僕は言った。すると、彼女は一瞬えもいわれぬ、何というか悲しそうな表情をした。しかし、それはすぐに平生のお調子者の顔に戻る。


「あたしだってそれなりに頑張ってるのよ。あたしは君のような生き方が羨ましい」


孤高こそ至高よ、そう言って僕を指差す。


「どこがだよ。君には明るい場所がよく似合う」


そうかな、と彼女は照れるように笑った。


「君はどうしてこの街にいたの」


突然話が変わった。できれば避けたかった話題。彼女は真っ直ぐに僕を見ていた。


「君には関係ないさ」


気まずくなって視線をマグカップに落とす。乳白色の水面がわずかに波打っている。


「こんな街、健全な青少年なら居住者じゃない限り訪れないわ。ましてや、こんな夜中に」


詰め寄るように彼女が言葉を被せる。


「君、何してたの」


「——君には、関係ないだろ」


やっとのことで出た反論はそれだけだった。何も言い返せない。彼女は恐らく僕がしていることの半分ほどは分かっているのだろう。


「学校とか、その、警察とかに言うつもり?」


「しないよ、そんなこと。絶対」


彼女は念押しするような強い口調で、そう言った。


「あたしは、ただ君を知りたいだけ。だからこれは、あたしだけで完結すること。他の誰にも言わないって約束するから」


僕は笑ってやった。ただの強がりだけど。


「ふーん。そこまで言うんだ。本当はもう分かってるくせに。何?そんなに僕の口から聞きたいわけ?」


言ってしまった後、我ながら何て意地の悪い言い方だと思った。でも今はこうやって強がっていなきゃならなかった。少しでも自分の余裕さを見せつけたいだけ。もう、後には引けない。それなら、総てこいつにぶちまけてやる。


「分かったよ、言ってやるよ。売春してる。バイシュン。金貰っておせっせしてるのさ。認めるよ。はい、以上。満足した?情けなんかクソくらえだぜ。通報でも何でもご自由に。退学なんて望むところだ。好きにしやがれ」


暴言を散々吐き捨てた後に立ち上がる。彼女は呆気に取られた様子でこちらを見ていた。


「帰るよ」


ビニール袋と貴重品を持って部屋を出る。


「待って、シュンくん」


と後ろで彼女が叫んでいたが、脇目も振らず一目散に走り去る。駅に駆け込んで何とか終電に間に合わせた。誰も居ない電車の中、罪悪に押し潰されそうになる。何てことをしてるんだ、僕は。優しくしてもらっておいてあんな仕打ちを。良心が痛む。けれど、そんな僕の心も暗闇に蝕まれているみたいで、僕はもとからそういう、最低な人間なんだ、そうやって生きてくんだ、と暗示に侵される。もういいから。好きにするから。もう誰も、僕に関わらないでくれ。

 鉄塊は僕を連れて漆黒へと直進する。どこまでも黒い闇に、呑み込まれてゆく。


【続】



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