第3話 懺悔

 今日も淡々と仕事をこなしていく。皆それぞれ事情を抱えた人たちばかり。敢えてそこに突っ込むことはしない。誰もが触れられたくないものを持っているはずだから。僕といる時間だけはせめて全部忘れさせてやりたかった。僕も総てを忘れるから。

 でも、時々自分語りをしたい人もいる。誰にも言えない、打ち明けたくてもできない、深い悩みをここで出してしまいたい人もいる。そういった人達の話は一応聞いている体を装う。下手に感情移入はしないように。情に絆されると後々面倒になる。あくまで上っ面だけ掬い取るように聞くことにしている。

 

 最後の客も何か話したいことがあるようだった。三山という疲れ顔の男で、40手前と言っていたが、実際はもっと老けているようにも見えた。それはただ彼が老け顔なのか疲労のせいでそう見えるのか、はたまたサバを読んでいるのか、聞くだけ野暮だ。彼はリピーターで、いつも食事も何もなく、ただ行為をするだけで終わる人だった。ヤり終えたら金だけ置いてさっさと帰ってゆく。特に話をすることもなく、無口な人という印象だった。そんな彼だが、今日はいつもと違って行為後も部屋に残っていた。珍しいことだった。冷蔵庫からオプションのワイン瓶を取り出してグラスに注ぐ。明らかにまだここに滞在するようだ。彼は瓶を僕の方に差し出し、君もいる?と聞いてくる。未成年なので、と断ると、こういうことはしてるのに飲酒はしないんだ、と彼は笑った。笑われたことにムッとして、じゃあ飲みますと返事すると、彼は冗談だからと言ってまた笑った。からかわれたのだろうか。本当にこの人の考えていることはいまいちよく分からない。彼は冷蔵庫からコーラの缶を取り出して僕に渡した。プルトップを引き、缶に口をつける。勢いよく流し込むと、炭酸が喉の奥まで駆けた。この感覚がたまらなくいい。汗を流した後なので、この爽快感が気持ちよかった。


「妻と子どもが、いるんだ」

彼がポツリと言った。彼が既婚者だということは最初会った時左手を見て気づいていた。指輪は付けていなかったが、薬指の付け根に食い込んだ跡が残っていた。僕に会う前に外してきたのだろうということが容易に想像できた。


「はなから僕はこっち側だった。自覚してたさ。小学生の時、同級生で、一人飛び抜けてわんぱくな奴がいてね、そいつのことをずっと見ていた。小麦色の肌で、顔立ちが男前で、気づけば目で追ってた。思い返せばあれが初恋だ」


そう言って遠い目をする。彼の頬はいつの間にか火照っている。酔いが回ってきたみたいだった。


「恋なんかじゃなくて憧れなんだってずっと言い聞かせてきた。普通の友達として、皆と同じように、これからも笑い合っていけたらいいって、そういう単純な夢を思い描いてた。けど中一で夢精した時、夢で見たのはあいつの裸だった。やっぱりどれだけ隠し事をしても身体ってのは正直なんだって。絶望したよ。だから極力彼を避けるようにした。僕がそんな目であいつを見てるなんて知られたくなかったから。自分のしたことを話してとことん嫌いになってもらって、侮蔑の一言でも言われたら良かった。あいつに心底軽蔑されたかった。そうすれば楽になれるだろうって。分かってたんだ」


分かってたのに――


「僕は結局できなかった。勇気がなかったんだ、嫌われる勇気。彼に嫌われるのが怖かった。気持ち悪いって言われたくなかった。だから嫌われる前に嫌いになった。兎に角彼を避け続けた。気づいたら彼は居なくなってて、他の連中と絡んでた。所詮僕ってのはその程度なんだって避け始めたのは自分の方なのに、何だかすごく悔しかったんだ」


どこにでもいる、ごく普通の男子でいたかった——彼は続ける。


「高校に上がってからはそりゃもう必死に努力した。何とか必死に普通を装ってきた。滑稽なくらい下手な演技でも誰にもバレなかった。汚いシモネタばっか言い合ってさ、体育で女の子のおっぱいが揺れるの見て騒いでみたり、AVを休み時間に携帯のちっさい画面で頭をくっつけ合うように見てみたりさ、ほんとに下品なことばっかりやった。僕もそういうくだらないことをアホみたいにやっていたかった。何も深く考えずに、純粋に楽しんでいたかった。けれど僕には無理だった。僕と奴らは決定的に違った。その輪に入っていても、結局自分は何も楽しめねぇし、余計あいつらとの距離を感じてしまう。見ている世界が違うんだって否応なしに突きつけられる。ただただ苦痛だった。お前らが女の子見て興奮してるとき、僕は男が掘られるの見て興奮してんだって。どう足掻いたって取り繕えるのは表面だけで、中身は変わりやしない。どこまで行ったって僕があいつらと同じ世界を見ることは叶わないんだって、勝手に疎外感を感じていた。周りにいた奴らにさえ、心の内を明かせない、本当の友人にはなれない、そんな気がしていた。先に線を引いたのは僕の方なのに、勝手に惨めな気持ちになってたんだ。被害妄想激しいだろ?」


そう言って彼は自嘲する。


「学生の間は誰にも言わなかった。万一誰かに言ってしまったら最悪街中に行き渡っちまう、そう思って。あの頃は今ほど寛容じゃなかったんだ。だから怖かった。自分の本性がバレた瞬間、周りの奴ら全員敵になっちまう気がして。そんなことはないだろうって分かってたよ。皆優しくて、友達思いで。でも人の本性なんて他人には分かりっこないんだから。推測なんて役に立たない。誰も信じることができなかった。だから自分を殺した。自分を認めなかった。ただじっと堪えてあの片田舎で生きてきたんだ。そんで気づいたら女と付き合ってた。それが、今の妻だ」


彼は、薬指に刻まれた指輪の跡を悲しげに見つめた。


「彼女は務めてる会社の事務をしていて、懇親会の席で一緒になって意気投合した。アプローチをしてきたのは彼女からだ。僕も彼女とならいけるんじゃないかって本気で思っちまった。これまで男を好きだと思ってたのはもしかしたら気の迷いで、ごく普通の男なんじゃないかって。本気で信じた。信じたかっただけなのかもしれない。その理想が先走りしてしまった。トントン拍子で話がまとまってあっという間に結婚。行為はその後だった、お互い子供がほしいとは思っていたから頃合いを見計らってすることにした。俺、いけると思ったんだ。彼女とならできるって。だけど、僕の身体は裸の彼女を欲さなかった。残酷だろう。ようやく世間様が言う普通の人間になれる、そう思っていたんだ。誰の目も気にしなくていいんだ。彼女を心と、それから身体で愛せる男なのだ、そうあってほしかった。でも僕にはできなかった。結局トイレに行って支度を済ませて行為に望んだんだ」


彼は口元を歪める。吊り上がったわけじゃない。くいっと下に。本当に歪んでいた。


「僕は彼女を愛するのに相応しい人間じゃなかった。だけど、もう引くに引けない所まで来てしまったんだ。それから暫くして、娘が生まれた。僕は守るものができちまった。良き夫として、良き父親として、それらしく振る舞わなきゃならなかった。気は楽だったんだ。もうこれまでのように孤独に生きなくていいって。肩身の狭い思いから解き放たれるって。でも同時に昔から抑え続けてきた本当の自分がずっと胸の奥でうめきやがるんだ。おまえはこっち側の人間だ、本当はずっと男と戯れる日を心待ちにしていたくせにって。もうこの本性も解放してもいいんじゃないかとせっついてきやがるんだ。耐えるべきだったんだ、僕は、あの時。踏み留まるべきだった。でも所詮そんなものはたられば論で、実際の僕はそんなこと微塵も思っていなかったと思う。理性なんてこの際通用しなかった。僕は誘惑に負けてこの沼地に踏み入っちまった」


ワインを継ぎ足して、また呷る。段々彼の飲むペースは速くなってきていた。


「そこからはもうどっぷりだ。こうやって思う存分快楽に耽る。僕が昔やりたくて、それでも理性で抑えて続けてきた欲求。抑圧の反動で箍が外れた。ここに来て何度もやった。もういっそのこと、家族を捨ててこっち側になってしまおうかって何度も考えた。だけど、だけど——」


彼は拳をテーブルに叩きつける。


「僕はそこまで薄情に、残忍になれなかった。できなかった。……これまであいつらの人生を散々狂わせておいて、自分だけ人生をやり直す、そんなこと都合が良すぎる。僕が最初から自分のことを素直に認めていたら彼女と結婚することはなかったし、子供を持つことはなかった。家族を無責任に作ってしまったのは僕なんだ。この責任を放棄することなんかできない。罰なんだ、これは。嘘に嘘を重ねてきた自分への。自分を認めてやらずに押し殺してきた自分自身への。愛する人——愛さなきゃならない人がいるのに、こうやってまた嘘を吐いて君と身体を重ねる。これからも僕は嘘を吐き続けるんだろうか。その嘘にずっと、生涯苦しめられて、生きてく。自業自得だよな。おかしいよな。全部、僕が悪いんだから。僕が……」


己への怒りからか昂って大きくなった声は段々尻すぼみになって途中から嗚咽が混じり始める。呂律の回らない彼は顔を真っ赤にして啜り泣く。僕はただ彼の隣で静かに話に耳を傾けていた。下手に会話を遮るべきじゃない。彼は僕に答えを求めているわけじゃないのだから。肯定も否定も、何も望んでいない。ただ聞いてほしいのだ。


 これは懺悔だ。


 これまでの偽りの一切合切を吐き出したい。赤の他人はこういう時に適任である。今後の人生で交わることがないはずだから言えることだってある。全部、全部出し切ってスッキリしたい。ゲロを吐くのと一緒だ。胃が空っぽになるまで、吐いていいから。彼の気持ちは痛いほどよく分かる。いけないことだと知っていても、理性の歯止めさえ効かないこの感覚、いけるところまで堕ちてしまった、きっとこの街にいるのはそういう人ばっかりだ。ここはやっぱり、都会の掃き溜めと言うのに相応しい。


 しばらくそっとしておくと彼は次第に落ち着いてきた。


「ごめんね。取り乱して」


彼は申し訳無さそうに言う。


「大の大人が恥ずかしいところを見せちゃったね」


とんでもないと言うと、彼は詫びのつもりかいつもより多い額を渡してきた。


「こんなには」

「いいんだ」


彼は僕に半ば強引に封筒を仕舞わせる。


「何の関係もない君に懺悔して楽になろうなんて、姑息な手段だよな。悪いことに付き合わせてしまった。本当にごめんな」


そう言って彼はシニカルに笑った。僕も同調して少し笑った。だが、彼の


「でも、おかげで踏ん切りがついたよ。君に話せて、よかった。遊びはこれっきりにする。これからは夫として、父として、真っ当に生きてくよ。君に吐き出したものも全部背負って、投げ出さないで、忘れないで、生きていく」


今度は晴れやかな笑顔を見せた。


「僕は、そんな……ただ聞いてただけだから」


「聞いてくれるだけでいいんだ。嬉しかった。自分のくだらない過去を、最後まで聞いてくれるなんて。自分の悶々とした思いをこうして言葉にできたのは、君のおかげだ。君なら大丈夫だと思った。君だから話せたことだ。これで、僕はもう一度自分と向き合うことができる」


僕に機会を与えてくれて、ありがとう——。


【続】



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