第2話 惰弱
彼女とはそれから特に深い話をするわけでもなく、駅で別れた。がらんどうの電車に乗って三駅先で降りる。街灯がぽつんぽつんとあるだけの閑静な住宅街。そのうちの一つ、薄汚れたアパートの二階突き当りが僕らの部屋だ。
鍵を開けると部屋の中は真っ暗で、母さんはまだ帰っていなかった。カレンダーを見ると今日は夜勤のようだった。アイスを冷凍庫に入れてソファに寝転がった。側にあったリモコンでテレビを点けると、誰かも分からない芸能人がげらげらと品の無い大笑いをしていた。何が面白いんだか。芸人の滑稽な動作に延々と笑い続ける。虚しくならないのだろうか。あまりの馬鹿馬鹿しさに口角が緩む。こいつらも所詮道化で、こんな風に笑いものにならねば生きていけないのだろう。哀れだなぁ。
どうやら、自分の行為の虚しさに気づいている奴もいるようだった。雛壇の一番上の端にいる俳優と思しき男、先程から笑ってはいるものの口角だけで目は少しも笑っていない。引き攣っているようにも見える。瞳は漆黒で、どこか別の方を見ているようでもあった。テレビを垂れ流しにしたまま、弁当を食う。やたら味が濃い惣菜の詰め合わせ。安いのはこれしかなかった。ずっと同じものばかり食べているせいかもうこの味も舌が麻痺して美味いのか不味いのかさえ分からなかった。それでもいい。こんなもの、味を楽しむためじゃない。栄養を摂取する、ただそれだけのものなのだから。流し込むように食った。最後にアイスクリーム。こればかりは美味いと感じた。
シャワーを浴びてきたけれど、アイスのせいで冷えたので風呂に入ることにした。熱い湯船に勢いよく浸かる。深い息を吐いた。この時間が一番落ち着く。汚された身体を浄化する時間のような気がする。それでも染み付いてしまった男の残り香はまだ消えていなかった。
ふとした時に彼が現れる。
切れ長の目は笑うと一層細くなる、右の口角が緩い人だった。彼が会う度にしてくれた、あの優しい抱擁。耳元に漂う香水の匂い。隠し切れない雄の臭い。何から何まで愛おしくって、僕の持ちうる総てを彼に注いだつもりだった。それなのに彼は何も言わずに消えてしまった。
本当は、僕の初めてを捧げた彼に悉く愛されてしまいたかった。そんな願いはもう叶わない。もう隣に彼はいない。僕にとっての総てと彼にとっての総ては噛み合わなかった。それだけのこと。それだけのことでも、僕らにとってそれは見逃せぬことだった。それは僕らの関係に歪みを生んだ。これまで積み上げてきたものは呆気なく崩れ落ちた。
彼を忘れる為にのめり込んだ世界は地獄だった。もしかすると、地獄より暗いところかもしれない。彼の為だけに、だなんて言って残しておいた余白は、名前も知らない誰かに穢されてしまった。彼以上の人なんて何処にもいないのに、流されるまま、愛のない行為を重ねた。彼との記憶を上書きしたくて、僕は必死だった。
それが今ではこのザマだ。
必死こいてやっていた筈のことはただ惰性で行う作業に成り果てた。もう彼以上なんて現れないのだ、そんな諦めに支配されつつある。それに、傷痕さえも忘れるほど、この行為に毒されてしまった。金銭まで受け取るようになった。僕はもう、堕ちるところまで堕ちたのだ。初めて金を握らされたあの日、僕は気づいた、ああ、そうだ、これだ、このためだったんだ、と――。彼の代わりを探しているんじゃない。僕はただ、金と性欲のためにやっているのだ――そう自分に言い聞かせると、気分が楽になった。でも、それがいけなかった。現実から目を逸らすための嘘。やがてそれは真実を侵食してゆき、真実に成り代わろうとした。今や、僕は何のために春を鬻いでいるのか、自分でも曖昧になっていた。
それでも時々傷が疼く。忘れるな、そう言わんばかりに。あの頃は、なんてまだ懐かしく思えない。気づけば、彼を探している、いや、彼の幻影に惑わされている。結局のところ、僕はまだ諦められていないのだ。振り切れてもいない。それなのに、僕はこの行為をやめられない。愚かだと知っていながら、少しの間だけでも忘れていたくて、一夜だけの相手に身体を委ねる。そんな自分がほとほと嫌になる。
このままバスタブに潜って死んじまえたら、ふとそんなことを思った。だが、すぐにその考えを打ち消す。無理だ。僕にはできない。僕は死ねないのだ。死ぬ勇気がないから。だから今、僕は生きているのだ。現状維持という安牌な選択。何も積極的に生きたいわけじゃないけれど、ここで息を止める勇気も覚悟もまだ持ち合わせてなかった。そもそも、そんな大それたことを僕ができるわけない。だから、仕方ないのだ。仕方なく、生きるほかない。この退屈な日々をただただ惰性で引き延ばす。明日も、そしてこの先もずっと、つまらない物語が続くのだろう。あぁ、気が滅入る……。
「死にてーなー」
独り言ちる。本心なのか、そうでないのか、自分でさえ分からなかった。もう、分からなくていいと思った。湯船に肩まで沈み込んで、ただぼんやりと天井のパネルに生えたカビを見つめていた。
*
風呂から出て火照った身体を冷ますと途端に眠気が襲ってきて、次に目が覚めたのは正午を若干過ぎた頃だった。今日が休日だったことに安堵する。昨日の情事の疲れを尚も引き摺っていて、倦怠感に見舞われる。母さんはもう朝のパートに行ってしまったようだ。机の上にはいつものように食費だけが置かれている。母さんとはここ最近、顔を合わせていない。たいてい僕が帰ってくる頃に彼女は寝ているし、僕が起きる頃には家を出ている。そんなすれ違いの毎日だ。もとより母さんと僕の関係は希薄なものだったから、こういうことには慣れっこだった。
ソファから一歩も動きたくなくて、取り敢えずテレビを点けた。昼のニュース。誰それが逮捕、死亡、そんなニュースばかりで、しかしその中でひと際目を引く項目があった。速報として取り上げられたある芸能人の自殺。顔写真として映ったのは昨日のバラエティに出ていたあいつだった。昨夜スタジオの入ったビルの屋上から投身自殺をしたらしい。あの生放送の直後ということか。通りであんな生気のない顔だったわけだ。経歴の紹介もあったが、どれもぱっとするものがなく、あまり売れていない奴だったのだと知った。生前は注目を浴びなかったのに、自殺してからスポットが当てられるとは皮肉な話だ。遺書らしきものは見つからなかったが、現場の状況から見て自殺。原因は調査中。面白おかしくマスコミが動機を推察して、飽きたらすぐ捨てられてしまうようなネタだ。ますます哀れに思えてしまう。彼の死に、特別な理由なんてきっとない。動機は大方将来を悲観して、とか。不安、焦燥、それから諦め。それを自虐ネタにしちまう奴もいるし、命を捨てるほどの行為に走ってしまう奴もいる。彼は後者だった。僕は、どちらにもなれなかった。どうしようもない、意気地なしだ。どうしようもなくて、笑えてくる。
いつまでも寝転んでいるわけにはいかなくって、流石に身体を起こした。鞄に入れっぱなしにしていたスマホを開くと、例のアプリに新規メッセージの通知が入っていた。仕事の話だろう。メッセージボックスにはずらりと名前が並んでいた。僕の身体に興味を持って連絡してきた人たちだ。彼らの中で条件が合った人に返信して、実際に会っている。会ったときは、アプリのユーザーネームで互いを呼び合う。でも、ここにいる人たちの大半は本名ではない。疚しいことをするためのアカウントなのだから当然だろう。偽名とかニックネームとか、特定されにくいようなユーザー名にしている。僕はというと、どこにでもいそうな名前だからバレないと高をくくってShunを使っているけど。
新しく届いたメッセージを開いた。ユーザーネームには見覚えがある。この前と同じ人だった。何日何時にどこどこで、いくらでどうでしょう――そんな決まり切った文言が見えた。その日なら何も予定がなかった。早速返信する。
『承知しました。では御約束の日時にお会いしましょう。楽しみにしています』
楽しみなわけない。それでも、つまらない液晶を眺めているより、ずっとマシだ。
【続】
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