残春の花片

見咲影弥

第一幕

第1話 邂逅

 痛いほどに真っ白だったキャンパスはとうの昔に失われていた。既に煤けた灰色に向かって僕らは絡まり合って歩んでゆく。もう抜け出せない。やり直せない――。まっさらにはできないのだと知っていて、それでも尚、僕らはやめない。やめられないのだ。


 三回戦目。体力はまだ充分にあった。彼の首に手を回して引き寄せる。顔はさして好みじゃなかった。可もなく不可もない、平坦な顔つき。唆りはしないが、食えはする。早速接吻に取り掛かった。舌と舌が縺れ、唾液が纏わりつく。深く、深く。決して互いの深みには触れられないのに、僕らはせめて形だけでも知った気になろうとする。滑稽でも、そうでなくちゃならなかったのだ、僕らは。少なくとも、僕は。


 一頻りディープをやり終えると、彼が僕を押し倒した。二人してシーツの海に沈む。シャワーを浴びたばかりの艷やかな髪が散じ、ローブは肌蹴る。肌色が顕になった。ここからが本領発揮、と言わんばかりに彼は意気揚々と着衣を脱ぎ捨てた。ランプシェードから僅かに洩れる暖色の光が彼の肌を映し出す。張り出した喉仏が大きく上下した。欲望の塊は頭を擡げる。青い血管が見事に浮き出て、彼の総てがその一点に集中しているようだった。彼が唇を歪めた。

 後はもう、されるがままだ。

 

 *

 彼の射精で情事は終わりを告げた。先程まで張り切って行為に勤しんでいた身体が、あっという間に重くなってゆく。本当に、馬鹿みたいだと思う。やっている間は何もかもを忘れられるのに、こうして終わってしまえば、総てくだらなく見える。何も生みやしない行為。愛さえそこにはないのだ。勿論、このセックスが愛を育むなんてこともない。僕らのしていることは、欲を満たすための行為でしかないのだから。

 深い息を吐いて上体を起こす。体が重かった。ローションのべとつく感じが気持ち悪くて、それだけはきっちり拭き取ることにした。テーブルの上のティッシュを数枚取って雑に拭う。それから、元いた場所にもう一度身体を沈めた。シャワーを浴びたかったけど、もう少しだけ、こうしていたかった。

 彼もゴムを捨てた後、もう一度ベッド倒れ込んできた。隣に僕よりも大きな身体が沈み込む。ベッドが静かに軋んだ。荒い息遣いが幾分か落ち着いた後、彼から深い溜息が洩れる。


「駄目だな。こんなことして」


それは、彼自身に向けられた言葉のようだった。彼は僕を抱き寄せて、それから、今日はありがとう、そう言って力なく微笑んだ。僕は彼の平たい胸元に顔を埋める。優しさとは似ても似つかない温もりを感じた。所詮この関係はそういうもんだ。愛を求める行為ではないのだから。単なる性欲と金、それだけのために僕らは動いている。僕らは立派な共犯者だ。


 シャワーを浴びて出ると、彼は既に着替えていた。背広にネクタイをだらしなくぶら下げている。駅を探せば見かける、仕事帰りのサラリーマンと言った出で立ちだ。そんな格好を見ると、やはりこういう人間は特殊でも何でもなくて、ありふれた存在なのだと実感する。ただ隠しているだけで、こういうことをしている輩はいくらでもいるのだ。現に僕だってそのうちの一人だ。


「これ、今日の分。少ないけど」


そう言って使い古しの茶封筒を渡してきた。その場で中身を確認すると、諭吉が覗いていた。なかなか太っ腹な方だ。


「またお願いするかも。その時はよろしく」


彼はそう言って部屋を出た。猫背の後ろ姿にはどことなく哀愁が漂って見えた。


 *

 チェックアウトを済ませてホテルを出る。顔を晒してしまうと色々と都合が悪いので、グレーのマスクで口元を覆った。春と呼ぶにはまだ早い、寒さの残る日。日もとっくに沈んでいて、首元をすり抜ける風が冷たい。ジャケットを羽織るくらいが丁度よかった。


 イヤホンを片耳につけ、スマホを手際よく操作して音楽を流す。流行りの曲は聞かない。一昔前の、感傷に浸れる曲。事を終えたあとはどうしてもこういう曲ばかり聞いていたくなる。下手に鼓舞されるより、暗い部屋の中で俺もだよって寄り添ってくれる方が、僕にとっては落ち着くのだ。

 ポケットに手を突っ込み、のそのそと歩き出した。裏路地を出ると本通りに出る。もう夜だと言うのに、この街は明るい。それもその筈、この街は夜が盛りなのだから。派手なネオンがあちこちにあって、夜道はそれだけで事足りるほど眩しい。欲望の充満した街。日々の疲れを癒やす、そんな生温いもんじゃない。此処にあるのは生きるための望み。退屈な人生に刺激を求める人とか、もうこれしか手段がなくなって逃げ込んできた人とか、世間から弾き出されてしまった人とか、そういう人たちの掃き溜め。でもそんな彼らも此処では排除されない。互いに利益のある関係なのだから。抗いがたい欲求にも従順になれる。この街は僕みたいな奴の存在を許してくれる、数少ない居場所だ。


 大通りの端、駅に近いコンビニに寄っていつものように晩飯を買う。華金なので奮発してコンビニ弁当にアイスを買った。王道のバニラ。まだ寒いけれど、家の中なら大丈夫だろう。上機嫌で駅の方に向かう。耳元で喚き散らしていた歌手が、曲の終わりで静かに言った。



 ”明けない夜はないってのは綺麗事だ”



 路上に落ちたロング缶を蹴っ飛ばす。歩道から逸れて排水口に繋がる溝に落ちた。煙草の自販機の前では数人ガラの悪そうな奴らが屯して煙を燻らせている。目を合わせると碌な事にならないので反対側に視線を遣る。此方も此方で大変だった。若い女が数人の不良男に囲まれていた。お姉ちゃんちょっと寄って行かね、と下品な誘い文句を言って詰め寄っている。あーあー可哀想に。お生憎様、僕には彼女を助けようという正義感など微塵もない。野郎どもに絡まれて怪我でもしたら大変だし、警察がくる騒ぎになったら尚更マズい。ヒーロー気取りは他の馬鹿な奴らに任せよう……などと考えて通り過ぎようとしたとき、彼女と目が合った。まずい。懇願するような目線を向けられる。ごめんなさい、助けられません、と心の中で謝る。目を逸らそうとしたその時……既視感。この顔、どこかで……。これまでの記憶を辿ろうと試みたのだが、それよりも先に、


「あっ、彼氏!」


と彼女が素っ頓狂な声を上げて、それにぽかんとした彼を押しのけて僕に駆け寄ってきた。いきなり僕の腕を組んで、強引に抱きつく。


「オジさん達、ごめんねー」


さっきまで囲まれていた男たちを盛大に煽った後、走り出す。僕は半ば引きずられるようにして彼女の後を駆ける。もう、一体なんなんだ……。とにかく、僕に一利ももたらさない、よからぬことに巻き込まれたということは確かだった。


 名前も知らない少女とともに、夜の街を駆ける。聞こえはいいけど、実際遭遇するとエモさの欠片もない。彼女は掴んだ腕をなかなか離してくれなかった。おかげで、男達の怒鳴り声が聞こえなくなっても、しばらく走り続ける羽目になった。


通りを抜けたところで、彼女はようやく立ち止まった。それに続いて僕も止まる。久しぶりに走ったせいか、なんだか頭がくらくらした。荒くなった呼吸を整える。ほんとに、一体何なんだ。突然こんなことに巻き込んで……。


「ごめんなさい!」


彼女が息も絶え絶えに謝ってきた。お陰で目立たないように振る舞っていたのが全部駄目になった。むしろ悪目立ちしてるじゃないか。かと言って彼女を責める気にはなれない。最初は助けるつもりなどなかったのだ。結果的に助けにはなったのだけど、一度無視しようとした手前あまり偉そうにはできない。

 

「いえいえ、お力になれたなら」


心にもないことを平然と言った。嘘を吐くのは慣れている。彼女は申し訳なさそうに、何かお礼を、と小さな声で言う。勿論断る。いえいえ、お気を遣わず、と作り笑いを浮かべる。これ以上厄介ごとに関わるわけにはいかない。早く帰らなければ。


「じゃあ僕、これで失礼します」


そう言ってそそくさと立ち去ろうとした、その時だった。彼女が口を開いた。


「ねぇ、もしかして……シュンくんじゃない?」


唖然として、その場で固まってしまった。どうして、僕の名を……。


「あたしだよ、あたし。ほら、同じクラスの、白嶺しらみね。白嶺ユイ」


ようやく、あのデジャヴの正体が分かった。そうだ、この顔。どこかで見覚えがあると思っていた。白嶺――ユイ。普段より数倍化粧が濃く、学校で見る姿とは全然違うけれど、確かに彼女。同じクラスというだけで顔見知り程度、話したことはなかったのですぐに思い出せなかったのだ。それにしても、どうして彼女がこんなところに……。学校とは反対方向にある夜の繁華街。ごく普通の高校生は何ら用がないところ。奇しくも、僕と彼女の運命はこんな場所で交わってしまったのだ。


【続】



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