第十話 背水の陣

 お盆休み初日。雪菜のペットのハムスター・ジロウは安らかに息を引き取った。ハムスターの寿命は短いので、三年以上生きたジロウは、長生きできたほうなのかもしれない。しかし、ずっと可愛がっていた存在が突然いなくなるのは、心に堪えるものがあった。

 お盆休みに計画していた三泊四日の家族旅行は、雪菜の体調不良のため中止。「たったハムスター一匹だけで」なんて、両親は何もわかっていない。しかし、普段からあれこれ助けてもらっている雪菜には、家族に当たることはできなかった。雪菜はぶつけたい気持ちを自分の中に封じ込め、もやもやしながら残りの夏休みを過ごした――。

「……雪菜、起きなさい! 始業式から学校休むなんて言うんじゃないでしょうね?」

 嫌々ながら目を覚ますと、母の怒鳴り声と階段を上る足音が近付いてきた。続けて、ガチャリと部屋のドアが開く音。雪菜は蚊の鳴くような声で謝った。

「ごめん。どうしても体調が悪くて……。明日こそ行くから、今日だけは休ませて」

「そんな言い訳は通じません。早く支度して出掛けなさい!」

 やっぱりわかってくれないよな。雪菜は部屋の隅、空になったハムスターのゲージに目をやりながら、ベッドから身体を起こした。

 憂鬱な気分で通学路を行き、学校に到着する。昇降口で靴を履き替えていると、後ろから「あら、後輩ちゃんじゃん」と声がした。振り向くとエリカさんが、仲間たちを連れて立っていた。

「久しぶりね。部活は頑張れてるの?」

「公募の小説はまだ手付けられてないですが、続けるつもりです」

「でも、来月締め切りなんでしょ? 今の進捗じゃ間に合わないんじゃない?」

 エリカさんは鼻で笑い、雪菜の横をすれ違って去っていった。しかし、雪菜が今、行き詰まっているのは事実だ。それなので、雪菜は午前中の授業を聞き流して、ノートにプロットを書こうとしたが、やはりジロウのことが頭によぎり、結局何にも集中できないまま、昼休みを迎えてしまった。

 二学期初日から騒がしい昼休み。雪菜が教室の隅で昼食をとっていると、桜木先輩が迎えに来てくれた。休憩室に到着すると、先輩が缶コーヒーを奢ってくれた。礼を言いながらふたを開けて、ゆっくりと飲み干す。

「雪菜、体調悪そうだけど大丈夫か?」

「イマイチです。ジロウは死んじゃったし、公募に出す小説の案も浮かばないし」

「それなら、その小説のテーマで、ペットの死を扱えばいいんじゃないか?」

 なんて名案だろう。今まで思い付かなかったが、ジロウの死を経験した直後だからこその作品が書けそうだ。

「わかりました、それで書いてみます!」

 雪菜はすっかり執筆モードでうなずいた。

 その日、雪菜は帰りのホームルームが終わると、真っ先に文芸部の部室へ向かった。いつもの席のパソコンの電源を付け、執筆を始める。ソフトが立ち上がった途端、踊るようにキーボードを打っていく両手。部活が終わって帰宅した後も、雪菜は寝る間も惜しんでノートパソコンと向き合った。

 次の日、雪菜は睡眠不足のせいで、午前中の記憶がなかった。あっという間に昼休みになって、桜木先輩が教室に顔を出す。雪菜は先輩と一緒に廊下を歩き始めた。

「大丈夫か? 目の下、真っ黒だぞ?」

 スマホのカメラで確認すると、雪菜の目には、驚くほど大きなクマができていた。

「頑張るのと無理するのは違うからな」

「でも、もし私の小説が選考に選ばれなかったら、文芸部は廃部になっちゃうんですよ?」

「大丈夫。本気で書けば必ず選ばれるよ。とにかく、これ以上、睡眠時間を犠牲にするのはやめろ。昼休みは保健室で寝て過ごしな」

 保健室の表札が見えてくる。雪菜は「わかりました」と、素直にうなずいた。

 それから早くも二週間が過ぎた。雪菜はあれから桜木先輩との約束を守って、夜は早めに切り上げて寝るようにしていた。しかし、そのせいもあってか、このままだと締め切りには到底間に合いそうもないペースだった。

 月曜日、雪菜が学校に登校すると、校門のところで偶然、梅咲先輩と松永先輩に会った。雪菜は気持ちが焦ってしまい、気付けば締め切りのことを相談していた。

「……なるほどね。竹原雪菜は忙しくて、だけど睡眠時間は削れないってことね」

 すると、隣で梅咲先輩が「どうしてもというのなら案がある」と人差し指を立てた。

「竹原さんは学校の出席日数ってわかる? 私、五月まで不登校だったから知ってるんだけど、出席日数っていうのは、一年のうちで授業に出席しなければならない日数のこと。私の場合、このまま休み続けたら単位落とすぞって先生に言われたんだけど、明日から四日連続で休んだくらいなら平気だよ」

「わかりました。今週いっぱい、サボります」

 松永先輩が「待って!」と呼び止める。先輩は自分のカバンから小包を出した。

「あんたみたいな真面目な子が、急に休んだら変でしょ? これ、清水寺に行ったときに買ったお守り。あんた、お盆休みは体調崩して遊べなかったんでしょ? なら、そのとき出掛けるはずだったぶんを今使って、家族で京都に行ったことにすればいい。せっかくだし、缶詰になってガチで書いてきなよ。例えば、七月頃に演劇部で使った高原の別荘なんかに行ってみてさ……って、そろそろ朝練の時間だ。じゃあ、竹原雪菜も頑張って!」

 雪菜はありがたくお守りを受け取った。去っていく松永先輩。今まで張り合ってばかりいたが、なんて優しい先輩なんだろう。雪菜はしばらく感動の余韻に浸っていた。


 その夜、雪菜は親戚のおじさんに電話して、事情を説明した。すると、おじさんは「ぜひおいで」と快く受け入れてくれ、両親にはおじさんから説得してくれることになった。

 火曜日の朝。山奥の別荘に到着し、ログハウスのチャイムを押す。すぐおじさんが出てきて、「よく来たね」ともてなしてくれた。

 雪菜はさっそく、二階の個室にて執筆活動に取り掛かった。おじさんたちは雪菜が眠くならないように、数時間ごとに高いコーヒーを淹れては、おばさん手作りのクッキーと一緒に差し入れに行った。

 そんなことをしているうちに、気付いたら日が暮れて、外は真っ暗になっていた。雪菜が昼食のときぶりにスマホの電源を入れると、桜木先輩からLINEが来ていた。

『お疲れ様。進捗はどうだ?』

『作品全体の四割くらいは完成しました。先輩のほうは、部活どんな感じですか?』

『順調だよ。根室先輩の台本、だいぶ演じられるようになってきた。それと金曜日、俺もそっちに向かいたいんだけどいいかな?』

『嬉しいですが、ひとりで来てくださいね? 先輩に伝えたい秘密の話があるんです』

 それからあっという間に水曜と木曜が過ぎて、雪菜は金曜日を迎えた。小説の進捗は八割程度。このペースで進めれば、日曜深夜の締め切りには間に合いそうだった。

 夕方、来客チャイムが鳴ると、雪菜はすぐに部屋を出ていった。玄関に着いたら、桜木先輩と目が合った。先輩はおじさんに「少しお話してきますね」と断った。

 雪菜が小説を書いている部屋に着くと、先輩はカバンを下ろし、「話ってなんだ?」と尋ねた。雪菜は先輩の目を見て、おもむろに口を開いた……つもりだった。

 肝心なことは、いざというときに話せない。夢の中で何度もシミュレーションした言葉は、喉につっかえて出てこなかった。ふと昔、先輩が褒めてくれたことを思い出す――雪菜は自分の『好き』に素直な人。雪菜は緊張を抑えて、話す代わりに桜木先輩に抱き着いた。

 先輩は逃げなかった。雪菜は先輩の顔に自分の顔を近付けて、耳元でささやいた。

「私、桜木先輩の粘り強くて努力家なところが好きです。ネットで話していた頃から好きでしたが、同じ高校に通うようになってから、さらにいろんな一面を知れて、もっと好きになりました。付き合ってください」

 雪菜は告白を終えると、先輩から身体を離した。先輩の温もりが、まだ身体に沁みついて残っている。と、唐突に先輩が頭を下げた。

「ごめん。俺、雪菜とは付き合えない。俺、どうしてもやりたいことがあるから、きっと付き合ったら後悔させる。でも、雪菜が好いてくれてるとわかって嬉しかったよ」

「だって大好きですもん」

 一回その気になると、すっかり緊張は解け、雪菜は何度も「大好きです」と繰り返した。そうすることで自分の心を守りたかった。でないと、明日から小説を書き進めることができない気がしたのだ。

 午後七時過ぎ。先輩は暗くなった夜道を帰っていった。雪菜はその夜、おじさんたちに隠れて、気が済むまで静かに泣き続けた。


 週明け月曜日、小説が締め切りに間に合い、雪菜は一週間ぶりに学校に行った。ホッとした気分で通学路を歩いていると、先日のように校門で松永先輩と会った。

「おはよう、竹原雪菜。小説は仕上がったの?」

「おかげさまで間に合いました」

 すると、急に松永先輩は雪菜の手を引き寄せ、小さな声で話した。

「やっぱり無理だったんだね、雪菜も。だって、もしいい返事をもらえていたら、もっと元気なはずだから」

 ああ、桜木先輩のことか。雪菜は黙ってこくりと首を振った。

「実は私も告白したんだけど、ご存知、振られちゃってね。それで、あんたはこれからどうするつもり?」

「友達として仲良くできるのなら、充分かな」

「私はまだ諦めないよ。これからもっと自分を磨きまくって、クリスマスにまた告白する。でも、雪菜が諦めてくれ……」

「諦めませんよ!」

 驚いてビクッと肩を震わせる松永先輩。

「あんた声大きすぎ。っていうか、言い直すのズルくない?」

「それを言ったら、先に私の気持ちを訊いて、後出しする先輩だってズルいですよ」

「それもそうね。お互い頑張ろうね!」

 松永先輩は話し終えると、手を振って去っていった。雪菜もカバンを肩に掛け直し、先輩を追うように昇降口へ走った。

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