第三話 幼き日の約束

 六月初めのある朝、拓海は職員室を訪ねた。部屋の奥、年老いた男性教師のデスクで立ち止まる。彼は演劇部の顧問だが、学務のほうで手一杯らしく部活には顔を出さない。

「今日はなんの用かい?」

「松永に作った台本を見せたら、思ったよりクオリティが高かったので、自分の代わりに部長になってほしいと言われたんです。それなので、先生からもご承諾いただきたくて」

 すると、先生は引き出しを漁って、部活に関する書類を取り出してくれた。

「それと、ひとつ大事な話があって、会議で部活の話が挙がったんだ。今の鳳花は部活が多すぎるので、演劇部や文芸部など、成績を残せていない部をなくす案が出た。演劇部存続の条件は、七月か十一月の発表会で、地区上位三位以内入賞が必須という話だ」

 地区上位三位以内。なかなかの難易度ではあるが、美紀が部長になる前の代では、ときどき達成できていたノルマだ。

「というわけで、演劇部は廃部の危機なんだ」

 放課後の多目的ホール。拓海は部の関係者を集めて、ミーティングを開いた。「質問」と細い腕を挙げる梅咲さん。

「演劇部って土日の活動はないんだよね? これからは休みを減らして、練習時間を増やしていったほうがいいんじゃないかな?」

「鳳花は週末の課題が多いからなぁ。これ以上、部の雰囲気が悪くなって退部が起きたら、今度は部員が足りなくて廃部の危機だ」

「それなら、発表前に広い場所を借りて、演劇合宿をしよう? それまでに完成度を上げ、合宿中は仕上げとして練習するの。どう?」

「美紀に賛成! 私もそれがいいと思う!」

 梅咲さんが答える。他の部員の様子を見ると、今度は賛成してくれた部員が多かった。

「それで可決にするよ。ホワイトボード片付けて練習始めるぞ!」

 拓海はすっかり部長らしい声で仕切った。


 美紀が体育着に着替え、北校舎一階の階段前に向かうと、そこにいたのは梅咲香里だけだった。こうして見ると、彼女は拓海の妹と似ている。美紀は長い茶髪を、頭の横でまとめ直しながら話し掛けた。

「梅咲さん、だっけ? 演劇部元部長の松永美紀です。なんて呼んだらいい?」

「香里でいいよ。私も美紀って呼んでいい?」

「いいけど、美紀呼びするのは家族と、いつも話してる親友だけだから浮くよ?」

「桜木くんとは幼馴染じゃなかったっけ?」

「いろいろあってね。話してたら来たよ?」

 美紀の指差す先に拓海と他の部員たちが見える。拓海は堂々とした声で集合を掛けると、今回の練習目的について話した。

「今の演劇部は体力が足りないから、走る練習をすることにした。雨で校外走ができないので、梅雨明けまでは階段ダッシュで補う」

 それから拓海は練習方法を説明した。行きは階段を一段ずつ駆け上がり、四階に着いたら折り返し。それからみんなは全力で練習に取り組んだ。初めこそ簡単だったが、だんだんと太ももが痛くなっていき、四階で休憩するときには、全員息が上がっていた。そして、問題は六往復目の休憩中に起こった。最後尾を走っていた香里がこないのだ。美紀は「私が見てくる」と、階段を降りていった。

 静かになった階段を歩いて下の階へと進むと、二階の踊り場で座り込んでいる香里を見つけた。足音で美紀に気付いて立ち上がる。

「ごめん。みんなに迷惑かけて」

「大丈夫よ。歩ける?」

 香里のペースを気遣いながら、ゆっくり階段を上がる。しばらく香里は黙り込んでいたが、少しするとつぶやくように話した。

「美紀って意外と優しいんだね」

「意外とって何よ、失礼ね。ところで、部活終わったら、どこかで喋ってかない?」

「いいよ。私もちょうど、もっと美紀のこと知りたいなって思ってたところだし」

 部活が終わると、美紀は香里に案内されて、休憩室へ向かった。香里が円テーブルに座ると、美紀も向かいに座って話し始めた――。


 美紀が拓海と出会ったのは、小学一年生の頃だった。ふたりは家が近かったため、一緒に登下校するようになり、自然と仲良くなった。そして、美紀たちが四年生になった頃、拓海の妹が小学校に入学した。名前は蕾といい、肩まで伸びた綺麗な黒髪が印象的だった。

 ある日の夕方、美紀が帰りの会を終えて拓海のクラスを訪ねると、拓海は珍しく機嫌が悪かった。何があったのか訊いても答えてくれない。仕方ないので美紀は拓海を連れたまま、蕾を迎えに一年生の階へ向かった。

 蕾は拓海たちが来るのを待っていたようで、美紀が顔を見せるや否や、目を輝かせて出てきてくれた。しかし、隣の拓海は不機嫌そうに「行くぞ」と美紀たちの前を歩き始めた。

「拓海、何があったのかな?」

 小声で蕾に尋ねると、「テストの結果が悪かったんだと思う」と返ってきた。そう言えば、桜木家は勉強に厳しくて、テストの成績が悪いとゲーム禁止になると聞いたことがある。

「拓海、そんな一度テストがダメだったからって落ち込まなくても大丈夫よ? 次、百点を取ったら、お小遣い増えるかもしれないし」

「違う。嫌なのは通知表!」

 拓海は美紀の手を振り払った。すぐに蕾が追い掛けたが、相手は運動盛りの小四男子。あっという間に追い付けないほど遠くまで行ってしまった。残念そうに戻ってくる蕾。

「蕾ちゃんは何も悪くないから大丈夫。帰りに公園で遊んで気分転換しよう」

 近所の公園に着く。蕾と美紀が隣り合わせのブランコに腰掛けると、蕾は口を開いた。

「お兄ちゃん、完璧じゃないと嫌なところがあるの。お兄ちゃんの通知表、今まで全部二重丸だったけど、次は三角がついて台無しになる。そんな、一回ダメだったくらいじゃ死なないのにね。それに、人は一度もミスをしないってほど、完璧にはできてないと思う」

「蕾ちゃんは凄いね。そんなことわかってるなんて大人みたい」

「美紀ちゃんだって、いつもお兄ちゃんと仲良くしてくれるところが、お姉ちゃんみたいで凄いよ。お兄ちゃんのこと、好きなの?」

 ドキッとした。固まってしまう美紀に、蕾は「なら私のライバルだね」と微笑んだ。

「私もお兄ちゃんが好きなの。今日、好きな人を発表する授業があったんだけど、みんなママって話す中、私はお兄ちゃんって言った。そのことをお兄ちゃんに話そうと思って、帰りの時間が楽しみだった。でも、兄妹は結婚できないから約束する。私の代わりに美紀ちゃんがお兄ちゃんのお嫁さんになるの!」

 美紀は自分の顔が赤くなっていくのを感じた。それは恥ずかしさからだったが、あとからついてくるように、きっと嬉しさも原因なんだろうな、と美紀は思った――。


 美紀が話し終えると、静かな休憩室に時計の針の音が響いているのがわかった。

「そんな大切な秘密、出会ってまもない私に話してよかったの?」

「なんとなくだけど、蕾ちゃんに香里の見た目がそっくりだから、運命を感じてね」

「そうなんだ。あと、なんで桜木くんを苗字で呼ぶのか、まだ教えてもらってないね」

「ちょっと答えにくい。もし、私と桜木くんの関係について興味があるのなら、ここから先は桜木くんに訊いてほしいな」

 不思議そうに首をかしげる香里。気まずい雰囲気になってきたので、美紀は「じゃあ、私は帰るね」と残して休憩室を去った。


 午後六時、部活終了。拓海は着替えを済ませると、活動日誌を書いて提出した。先月まではサボる側だったのに、拓海は考えるたびに自分のことながら驚いてしまう。

 昇降口に着くと、外から雨の匂いがした。下駄箱のふたを開けたとき、後ろから「桜木じゃねえか」と月島の声が聞こえた。

「こんな時間までどうしたんだ? 月島って部活入ってたっけ?」

「無所属だけど、自習室で勉強してたから遅くなった。桜木新部長もお疲れ様」

「ありがとう。思ったより大変な仕事だったよ。松永も必死になりすぎて空回りしていただけで、頑張ってたのかもな」

「根は真面目なんだよな。俺、松永と同じ中学でさ。あいつ、最初は真面目なキャラだったんだぜ? それで、二年でイメチェンして、スクールカースト駆け上がってったんだ」

 月島は「女って大変そうだよなー」と他人事な言葉で話を締めくくった。

 月島と別れると、全身に疲れを感じた。筋肉痛の腕には傘が重く、雨の音が鬱陶しい。校門近くでスマホが震える。ポケットから出すと、梅咲さんからLINEが来ていた。

『突然ごめん。気になることがあるの。桜木くんと美紀って、どうして今、ぎくしゃくしてるのかなって』

『昔、事故で妹を亡くしたんだ』

 彼女になら伝えていい気がした。返ってきたメッセージは、『ごめんね』の一言だった。


 六月最後の週。拓海は昼休みになると、雪菜を連れて休憩室に向かった。到着すると、イスに向かい合って腰掛ける。

「先輩、部活頑張ってますね! 梅咲先輩の調子はいかがですか?」

「めちゃくちゃ順調だよ!」

 梅咲さんには役者決めの会議で、みんなの前で演じてもらった。その結果、さっそく発表会の主演に選ばれる快挙を果たした。

「実は初めて会ったときから、梅咲先輩、才能あるだろうなと思ってました。だって、映画観た感想で、目線とか息遣いが凄いって言えるなんて、演技のことわかってないとそんなところ気付けませんから」

「ところで、雪菜の文芸部も廃部候補だったけど、なんとかなりそうか?」

「そうなんです。ノルマは校外の募集で一次選考通過なんですけど、他の部員も私に任せっきりで困ります。あと、演劇部合宿の話、親戚に問い合わせたらOKが出ましたよ。ごちそう用意して待ってるからおいでって」

 雪菜の親戚には裕福な家庭があるらしい。先日、その家庭に二日間限定で家を借りさせてもらえないか頼んだところ、ありがたいことに受け入れていただけたのだという。

「じゃあ、合宿当日はよろしくな」

「こちらこそ、いつも仲良くさせてもらってるので、ほんのお返しのつもりで……」

 ガチャリ。雪菜が話している途中でドアノブが回る音がした。慌てて振り向くと、美紀が拓海と同じくらい驚いた表情で立っていた。

「あっ、あんた誰よ⁉」

 雪菜を指差して大声を出す美紀。「松永こそどうしてここに?」と尋ね返すと、美紀はポケットから財布を出しながら答えた。

「こないだ香里にいい部屋教えてもらってね。喉乾いたから自販機使いに来たら、まさかあんたが知らない後輩と話してるとはね」

「自己紹介が遅れました。私、桜木先輩とよくお話している一年の竹原雪菜といいます」

「あ、そうだ、松永。今度の合宿、雪菜の別荘でやることになったんだ」

「は? 勝手に話進めないでよ」

「決まったことです! おじさんにも桜木先輩にごちそう振る舞う約束したんですから!」

 拓海の腕を掴んで言い返す雪菜。ふたりの間で火花が飛び交っている。俺、何か悪いことした? 拓海はなぜか修羅場のようになっている休憩室で、大きなため息をついた。

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