第二話 桜の木の下で
水曜日の夕方。竹原雪菜は夕日を眺めながら、飼っているハムスター・ジロウに餌をあげていた。不意にLINEの通知が来る。送り主は先輩の桜木拓海で、演劇部の台本作りを手伝ってほしいとのことだった。
『明日の放課後空いてます? もしよければ、その日、私と映画を観に行きませんか? 創作する上で、面白い作品からインスピレーションを受けるのは大事です』
今度は既読から返信まで少し時間がかかった。返ってきたのは期待の斜め上を行く言葉。
『せっかくだし、新しくできた友達も誘っていいか? 梅咲香里っていうんだけど、映画はふたりより三人で観たほうが楽しいし』
雪菜の小さな口からため息が漏れる。しかし、雪菜は切り替え、『いいですよ!』と送信した。スマホの電源を切ってハムスターの家を見ると、ジロウはキャベツを食べ終え、退屈そうにこちらを眺めていた。
木曜日の放課後。雪菜は帰りのホームルームが終わると、校門前でふたりを待った。「お待たせ」と声がして振り向くと、雪菜は視界に初対面の女子生徒を捉えた。
「初めまして、桜木くんのクラスメイトの梅咲香里といいます。今日はよろしくね!」
「竹原雪菜といいます。趣味で小説を書いています。今日はよろしくお願いします!」
映画館は学校から徒歩十分ほどの場所にあった。外壁にはポスターが一定の間隔で並んでいる。三人は目当ての映画のポスターを見つけた途端に話し始めた。
「これが話題になってて今日観るやつだよね」
「そうです! 最後のほうは、かなり盛り上がるらしいですよ!」
それから三人は館内へ入り、受付でチケットとポップコーンを買うと、上映部屋へ向かった。上映部屋では予告編がひっきりなしに流れていた。選んだ座席は中央の観やすいところ。ポップコーンを食べながら上映を待っていると、桜木先輩が話し掛けてきた。
「それにしても、小説のほうが参考になりそうなのに、どうして映画がいいんだ?」
「両者は似ていそうで違うからです。例えば、映画は部屋に入ったら最後まで観続けるので、序盤の動きが弱くても、後半に勝負をかけられます。一方、小説は読者を飽きさせないため、頻繁に伏線を張る必要があるんです」
雪菜が説明を終えると、部屋は薄暗くなった。言うまでもなく、その後の百二十分間は充実していた。三人は映画を見終えると、ゴミを捨てながら、映画の感想を語り合った。
「先輩は今回の映画から、何か学べたものはありましたか?」
「ストーリーの緩急が大事だな、と思ったよ」
「あとは、演者の視線とか息遣いも凄かったよね! 怒ってるときはちゃんと相手の目を見ながら話すし、呼吸も荒めになる。私、参考にしてみようと思った!」
驚くことに梅咲先輩が語ったことは、雪菜の考えと同じだった。上からになってしまうが、彼女は演者の素質がありそうだ。
映画館を出ると、夢から覚めたような気分だった。名場面を思い返していると、桜木先輩が唐突にパチンと自分の両頬を叩いた。
「今ならいい台本が書けるかもしれない。ふたりには悪いけど、先に帰るよ。またな」
桜木先輩の後ろ姿が見えなくなると、梅咲先輩が話し掛けてきた。
「私と桜木くんはただの友達だけど、竹原さんは桜木先輩と、いつから仲良くなったの?」
「……どこで気付いたんですか?」
「竹原さん、ポスターの前で話してるときに、ずっと桜木くんの顔見てた」
「……あれは私が中学生の頃のことでした」
雪菜はおもむろに語り始めた――。
中学校の静かな教室。教卓の近くで、四つの机が向かい合わせにくっついている。今日は三者面談。当時、三年生の雪菜の向かいには担任、そして横隣には母が座っていた。
「進路についてですが、まだ、これといった希望はなくて……」
雪菜には中三にして将来の夢も、趣味や嗜好品すら思い浮かぶものがない。おまけに友達もおらず、学校ではひとりぼっち。結局何も答えられないまま、三者面談が終わる。雪菜はため息をつきながら、母と教室を去った。
そんな雪菜も十五歳の誕生日を迎えた。両親からのプレゼントはノートパソコン。内蔵ソフトにはワードという、文章を書くソフトがあるらしい。ふと、雪菜の頭に考えがよぎる。このパソコンを使えば、私にも小説が書けるんだよな。気付けば雪菜の手は既に動いていて、ワードソフトを開いて、人差し指で文字をポチポチ入力し始めていた。
これが雪菜の創作の第一歩だった。雪菜は毎日ワードを開くようになり、帰宅したら日記のように、思ったことを文字に起こす習慣ができた。そして、雪菜は流れで作った文章を推敲し、小説投稿サイトにて発表した。
すると、驚くことに初投稿にもかかわらず、あっという間にPV数が伸びて、コメントがたくさん寄せられた。雪菜は嬉しくなって、どんどん新しい部分を公開していった。
そんなある日、雪菜のSNSのDMに長文の感想が届いた。送り主はチェリーさん。雪菜は舞い上がるように返信した。
『ここまで私の小説を褒めてくれる人は初めてなので嬉しいです! また明日も更新するので、よかったら読んでください!』
それからふたりは毎晩DMで話した。雪菜にとってチェリーさんは、唯一の自信を持って「友達」と呼べる相手だった。しばらく関わって知ったことがいくつか。チェリーさんは男性で、本名は桜木。年齢は雪菜よりひとつ上らしい。さらに、住んでいる県も同じで、簡単に会えそうな距離だった。
そんな中、チェリーさんのいる鳳花高校の文化祭が始まった。雪菜は当然のように会いに行った。催しの隙間時間、休憩室で待ち合わせる。しばらくすると、頭のよさそうな男子生徒が現れ、「桜木です」と名乗った。
その日、ふたりは約束した。鳳花を受験して、次は同じ高校の先輩後輩という関係で話そう。そして、雪菜は念願叶って、鳳花高校に入学できた。創作と先輩との出会いは、モノクロだった雪菜の世界を彩ってくれた――。
国道沿いの道を車が走っている。雪菜が話し終えると、梅咲先輩は「なるほどね」と満足そうにうなずいてくれた。
「私、恋愛は映画に似ていて、ある程度は受け身でも大丈夫だと思う」
「そうですね。でも、さすがに今のままじゃ気付いてもらえない気がします」
「それならもう少し積極的にならないと」
駅のロータリーが見えてくる。先輩は「またね」と、もと来た道を引き返していった。
週明けの朝。雪菜が自分の教室で本を読んでいると、桜木先輩が後ろのドアに姿を現した。雪菜は梅咲先輩との会話を思い出しながら、勇気を出して話し掛けた。
「ひとつお話があります。先日は台本作りの手助けになればと思って映画に行ったのに、どうして梅咲先輩まで連れてきたんですか?」
「梅咲さんは演劇部の仲間だし、映画は彼女にとっても演技のお手本になるだろ?」
「お手本なんてネットで検索すれば済む話じゃないですか?」
「さっきから言ってることおかしくないか? 梅咲さんは雪菜に何も悪いことしてない」
「うるさい! 先輩の鈍感!」
雪菜は逃げるように教室を去った。それから火曜、水曜と、雪菜は桜木先輩と口を利かずに過ごした。そして、金曜日の放課後。部活に向かう途中で、不意に知らない人から声を掛けられ、雪菜は足を止めた。
「お前が竹原雪菜か? 桜木先輩に謝らなくていいのか?」
「そもそもあなた誰ですか?」
「鳳花高校の恋のキューピット・ツッキーだ」
無視して立ち去ろうとする雪菜。すると、その先輩はひとり言のように言った。
「全然話変わるけど、こないだ『冬の匂いがした』っていう小説読んだら、面白すぎて頭から離れなくなっちまったんだよな」
「主人公の名前と誕生日、好きな食べ物を答えてください」
「桐谷タカ。誕生日は十月十日。好きな食べ物はからあげでレモンは絶対かけない派」
雪菜は思わず「ほんとに読んだんですね」と声を漏らしていた。
「それで、桜木先輩の話に戻るけど、自分のどこが悪かったのか、わかるか?」
「梅咲先輩に嫉妬して押しすぎちゃいました。恋愛はタイミングが重要だそうです。でも、私が動いたのは動くべきときじゃなかったし、アタックの仕方も悪かったです」
「話し方には気を付けないと、無意識のうちに傷付けちまったりするよな」
「今から謝りに行ってきます。あと、私に話し掛けるためにわざわざ小説まで読んでくださったなんて申し訳ないです」
「気になったから読んだだけだよ。また今度、『冬の匂いがした』について語り合おうな!」
三十分後、すっかり緑色の葉になった桜の木の下で、桜木先輩は待ってくれていた。雪菜はすぐに駆け寄って頭を下げた。
「今日はお忙しい中、来てくださってありがとうございます」
先輩がスマホから顔を上げ、目が合う。雪菜はひるまず口を開いた。
「先日は自分勝手な話し方で、不快にさせてしまってすみませんでした。あのときは言いすぎてしまいましたが、今は梅咲先輩も優しくて頼れる先輩だと思ってます!」
「俺も仲直りしたいよ。誰だって気乗りしないときくらいあるのに腹立てて、俺も大人げなかった。それと、実は会えなかった間、不安だったんだ。雪菜が妹のときみたいにいなくなっちゃうんじゃないかと思って……」
「私はずっと桜木先輩のそばにいますよ? 私、昔は好きなものがないのが悩みで、ようやく行きついた趣味が創作でした。でも、私が創作を楽しめたのは、感想をくれる人がいたからです。先輩が感想を送ってくれた日、私はニヤニヤが止まらなかったんですよ?」
すると、先輩ははにかみながら答えた。
「嬉しいな。文化祭で会ったときは、想像の雪菜と実際の雪菜がピッタリ同じで、すぐに本人なんだなってわかったよ」
「先輩には、私はどんな人に見えましたか?」
「自分の『好き』に素直な人。飽きっぽくて無頓着なぶん、好きになったものは極められる努力家だと思う。これからもよろしくな」
雪菜は「こちらこそです!」と微笑んだ。
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