第33話 喧嘩
僕は全身から汗が吹き出し、心臓の音が耳の中で大きく響いていた。
何とかして橘さんに追いつこうと、息を切らしながら、ひたすら走り続ける。
けれど、彼女の姿は見えない。
やがて、ダンジョンのある広場が見え始め、足音が大きく響く中で、僕はようやく彼女の姿を見つけた。
目の前には、橘さんと田中たちが向き合っているのが見える。
「やっぱり、橘さん…!」
僕がそう呟いたとき、橘さんは田中と激しく言い合っていた。
彼女は怯むことなく、気丈に立ち向かっている。
それでも、田中や大野、山口が彼女を取り囲んで冷ややかな目で笑っている姿に、どうしても目が離せなかった。
僕の背後で洋介がささやく。
「健太、これは相手がレベルも経験も上過ぎですぞ…」
拓也も警戒するように周りを見渡しながら言う。
「おそらく、ここは一旦様子を見て、適切なタイミングで動くべきかと…」
けれど、僕の体はその場に立ち止まることなんてできなかった。
橘さんがこんなにも勇敢に向かい合っている姿を見て、僕は思わず2人に叫んでいた。
「お願いだ…洋介、拓也! 橘さんを助け出してくれ!」
2人が驚いた顔で僕を見る中、僕は目の前の光景に集中した。
橘さんと田中が話し終え、彼女が背を向けた瞬間、田中の目が鋭く光った。
「おい!」
その瞬間、田中が彼女に向かって突如として襲いかかり、橘さんを殴りつけた。
吹っ飛ぶ橘さん。
「さぁ、橘、お前はちょっと俺たちの家に来てもらうぞ。しっかり『教育』してやらないとな」
怒りが爆発し、僕は反射的に走り出していた。
目の前で橘さんが傷つけられている光景が、理性なんて吹き飛ばしてしまった。
田中たちが、橘さんを引きずろうとしたその瞬間、僕は田中の肩に思い切り体当たりした。
「おい田中、てめぇら…橘さんにこれ以上、指一本でも触れてみろ!お前たちに何があろうが、俺は負けないからな!」
吹っ飛んだ田中は驚いたように一瞬後ずさったが、すぐに不敵な笑みを浮かべ立ち上がった。
「偉そうにするんじゃねぇぞ、デブオタ!」
田中の拳が顔面に当たるが目線は逸らさない。
大野と山口も僕を嘲笑いながら囲んでくる。
けれど、僕はただ、橘さんを助け出すことで頭がいっぱいだった。
田中が再び僕に拳を振りかざしてくる。
全力で受け止めるけれど、その衝撃が全身に響いて、僕の足が崩れそうになる。
それでも、橘さんに向かって手を伸ばし続けた。
「橘さん、ここから逃げて!」
洋介と拓也が駆け寄り、橘さんの腕を引きながら、必死にその場を離れようとしている。
僕は、彼女の安否を確かめながら、もう一度田中に向かって全力で突っ込んだ。
「お前ら、絶対に橘さんには手を出させないからな!」
全身に力を込めて、僕は田中に食らいつく。
背後で洋介と拓也が橘さんを守り、3人が離れていくのが見えた瞬間、少しだけ胸が安堵する。
でも、僕の目の前に再び田中が立ちはだかり、僕を突き飛ばして笑う。
「お前なんか相手になんねぇよ、デブオタ。大人しくその場に転がってな」
それでも、僕は全力で這い上がり、また田中に立ち向かう。
心の中で何度も何度も叫び続ける。
ただ、橘さんを守りたい、その思いだけが僕の全てだった。
田中が拳を振り上げたその瞬間、僕は身を低くしてかわし、逆に彼の腹に渾身の力を込めた一撃を叩き込んだ。
思った以上に手応えがあり、田中が少しよろめいたのが見えた。
驚いた表情でこちらを睨む田中に向かって、僕はさらに勢いをつけて前進する。
「ぐふふ、どうだ? 思ったよりもやれるかもな…!」
予想していたよりも田中の拳は軽いし、痛みもそれほど強くない。
僕の体はレベルアップしていた。
今の僕なら、田中と対等に戦えるかもしれない。
そんな一瞬の希望が胸に湧いたが、すぐに現実が目の前に迫ってきた。
「てめぇ…調子に乗るな!」
怒りに染まった顔で田中が叫び、すぐさま大野と山口も加勢してくる。
僕は田中に集中しながら、気を抜かずに彼らの動きを見極めなければならない。
3対1という状況の厳しさが改めて実感として襲いかかってくる。
ここで諦めてたまるか。
再び田中が拳を振り上げてくる。
僕は懸命にその一撃をかわし、逆に田中の顔面へ拳を繰り出した。
けれど、すぐ横から大野が突進してきて、僕の背中を強く押しのける。
バランスを崩しながらも、必死で体勢を立て直して、田中をにらみ返した。
「どうした、田中。これで終わりか?」
わざと挑発するように笑いかけてやる。
田中が憤慨し、再び突進してくるのがわかる。
けれど僕は田中だけを見据え、彼の攻撃に合わせて体を横にずらし、再び彼の側面に回り込んで、渾身の一撃を腹に叩き込んだ。
田中が呻き声をあげて後退する。
だが、その瞬間、山口が背後から僕の肩を掴み、強引に引き寄せる。
振り向いた瞬間に拳が飛んできて、僕の頬に衝撃が走る。
けれど、僕は歯を食いしばり、そのまま山口に体当たりで応戦した。
彼ら全員が一体となって僕を倒そうとしているが、僕も必死に食らいつく。
「くそ…お前、しぶといなぁ…!」
田中が息を荒げながら、険しい表情で僕を睨む。
僕は息も絶え絶えだが、それでも闘志は衰えていない。
橘さんを守るという決意だけが、僕の全身に力を与えてくれる。
「なんとでも言えよ…俺は絶対に、橘さんを渡さない!」
田中に渾身の一撃を見舞うと、僕は思わず胸の中で何かが揺れるのを感じた。
こうして拳を振るって誰かと本気でぶつかるのは、いったいどれくらいぶりだろう。
気づけば、自分が小学生の頃のことがふと頭をよぎっていた。
あの頃、僕は体が大きくて力も強く、周りの奴らからは「ガキ大将」として見られていた。
喧嘩も多くて、暴力で解決しようとすることがほとんどだった。
橘さんが泣いてるのを見た時も、真っ先に立ち向かって…けど、その時、僕は怪我をして、彼女も巻き込んでしまった。
その後、母に叱られて父にも叱られて、殴り合いが解決にはならないって教えられた。
それ以来、いつしか僕は暴力から離れて、パソコンにのめり込むようになった。
安全で安心できる場所で自分を守り、もう誰も傷つけることも傷つけられることもないようにと、そうやって過ごしてきたんだ。
だけど今、僕はこうして田中とぶつかっている。
胸の奥が熱く燃え上がって、目の前が真っ赤になる。
守りたい人を守れず、ただ殴られるばかりの自分が、なんだかどうしようもなく情けなく感じられた。
「ぐっ…はぁ…まだだ…まだ倒れない…!」
僕は田中にもう一度立ち向かっていった。
自分の全てを振り絞るように、今まで抑えてきた感情を拳に込めて田中を殴り返す。
再び田中の拳が僕の腹に入って、強烈な痛みが走ったけど、痛みを忘れるほどの怒りと悔しさが湧き上がる。
「橘さんを…お前なんかに渡してたまるか…!」
力が限界に近づく中でも、僕は歯を食いしばって立ち上がり続けた。
拳を振り上げる度に、体が悲鳴を上げているのがわかる。
でも、僕にはもう後戻りなんてできなかった。
守りたいものがある。
だから、僕はもう一度田中に向かって走り、渾身の力でぶつかっていった。
そして、次の瞬間、僕の意識がふっと遠のいていくのを感じた。
倒れ込むようにして、僕の体は地面に沈んでいった。
それでも、心の中では橘さんの顔がずっと浮かんでいたんだ。
僕の視界がぼやけ始めるのを感じた。
体中が痛みで痺れている。
目の前が、ゆっくりと闇に包まれていく。
「おい、これ死んだんじゃねぇか?ははは」
「いや、流石に死んだらまずいっしょ。逃げようぜ」
「俺達はここにはいなかった、だろ?」
「そうだな。ぎゃははは」
3人が談笑しながら去っていく。
悔しい。
ごめん。
橘さん全然仕返し出来なかったよ。
俺弱すぎたよ。
僕は、拳を握りしめた、意識が遠のいていくのを感じながら、田中への怒りを胸に秘めたまま静かに意識を手放した。
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