第32話 口論
勢いよく弾き飛ばされる田中に、私は驚きで目を見開く。
その影は——健太くんだった。
「健太くん…!」
「おい田中、てめぇら…橘さんにこれ以上、指一本でも触れてみろ!お前たちに何があろうが、俺は負けないからな!」
健太くんは私の前に立ちはだかり、拳を固く握りしめた。
彼の決意に満ちた目が輝いているのを見て、私は心の底からの安心感を覚えた。
しかし、それも束の間、田中は立ち上がると、すぐに健太くんに向かって拳を振り下ろした。
「偉そうにするんじゃねぇぞ、デブオタ!」
健太くんが田中たちに立ち向かう姿を見て、私は胸が張り裂けそうだった。
田中の拳が健太くんの顔に直撃し、続けて大野と山口が健太くんを容赦なく蹴りつける。
彼が必死に立ち上がろうとしても、3対1の戦いはどうしても分が悪く、体が次第に倒れていくのが見て取れた。
私は抑えきれない衝動で彼らに向かって駆け出そうとした。
「やめて!健太くんを傷つけないで!」
必死に叫びながら、彼に手を伸ばした瞬間、後ろから誰かに腕を掴まれた。
振り返ると、中村くんと高橋くんが私の肩をしっかりと掴んでいた。
二人は真剣な表情で私を見つめている。
「橘さん、健太は俺たちに橘さんを守れって言ってた。ここは危険ですぞ、だから、ここは僕たちと一緒に逃げてください!」
「え、でも、健太くんが…」
私は健太くんを見て、どうしてもその場を離れることができない自分を感じていた。
しかし、高橋くんも冷静な声で私に言い聞かせる。
「健太の覚悟を信じて。奴らに勝てるかわからないけど、奴は絶対に橘さんを守りたくてああしてるんだよ。俺たちは健太を信じて、今は橘さんを安全な場所に連れて行く。今はそれができる唯一のことなんだ」
高橋くんの言葉が胸に刺さる。
苦しげに表情を歪めている健太くんを置いて逃げるなんて考えられなかったが、彼の強い意志と二人の真剣な顔に押され、私は彼らの言葉に従うことにした。
「…わかった。でも、絶対に健太くんを助けるから!」
私は二人に支えられながら、必死に足を動かし、その場を後にした。
心の中で健太くんを信じている自分と、彼を置いていく自分が葛藤していたが、私は今は二人の支えを頼りに、山下先輩たちの元へ急いで向かうことしかできなかった。
振り返ると、健太くんがまだ田中たちに食らいついている姿が見えた。
彼が必死に闘い続ける姿が、私の胸に深く刻み込まれる。
私は彼の姿を目に焼き付けながら、心の中で祈るように誓いを立てた。
(待っていて、健太くん。今すぐ仲間を呼んで、必ず戻ってくるから…!)
私は中村くんと高橋くんと共に全速力で走り、山下先輩たちの助けを求めるため、取引所へと向かった。
健太くんのために、絶対にもう一度戻ってくるんだと自分に言い聞かせながら。
取引所の前に到着すると、佐々木くんと高木くんが真っ赤な顔で口論しているのが見えた。
二人は睨み合いながら、お互いに一歩も引かない様子だ。
そんな二人の間に、優花が焦りつつもなんとかして止めようと割って入っているが、怒りの勢いに押されているようだった。
その後ろには、山下先輩が腕を組んで呆れ顔で立っている。
「ちょっと、落ち着いて二人とも!」
優花の必死な声が響くが、佐々木くんが顔を赤くして声を荒げる。
「お前、なんで俺が悪いみたいに言うんだよ!連さんも、橘さんも、高木も、勝手すぎるんだ!」
高木くんも負けずに応戦する。
「何言ってんだよ。お前が勝手に橘さんのことばかり気にかけてるから、冷静になれないんだよ!俺たち、橘さんのために一緒にやってきただろう?」
二人の激しい言い争いに、山下先輩が深いため息をつきながら、少し声を荒げる。
「もういいだろ、二人とも!こんな無駄な言い争いしてどうするんだよ、いい加減にしろ!」
私は思わず足を止め、山下先輩の強い声に息を呑んだ。
二人の怒鳴り声が耳に響く中で、山下先輩の冷たい視線が私に向けられる。
「橘、どうしてこんなことになってるか、わかってるのか?お前のせいでみんながこんなに揉めてるんだぞ」
その言葉に私は息を詰まらせ、咄嗟に視線を落とした。
言い返す言葉も見つからず、ただ
「ごめんなさい」
と素直に謝ることしかできなかった。
頭を下げながら、必死に声を出す。
「みんな、ごめん…でも、助けが必要なの。健太くんが、今、田中たちに襲われているの。お願い、助けてほしいの!」
その一言で全員の表情が変わった。
佐々木くんも高木くんも驚きの表情で私を見つめる。
「それをもっと早く言えよ!」
山下先輩が眉間にシワを寄せながらも、すぐに皆に指示を出した。
「よし、みんな、行くぞ!佐藤を放っておけない!」
彼の言葉にみんなが一斉に頷く。
私は感謝と焦りが入り混じった気持ちで彼らに一礼し、取引所前を後にした。
佐々木くんと高木くんもその瞬間だけは口論を忘れたかのように真剣な顔つきで、健太くんの元へと全員で駆け出す。
駆けつけた私たちの目の前に、ボロボロになった健太くんが倒れていた。
彼の体は傷だらけで、衣服も泥と血で汚れている。
優花はすぐさま膝をつき、回復魔法を使ってくれた。
彼女の手からほのかに光があふれ、健太くんの傷が少しずつ癒されていくのがわかる。
「健太くん、大丈夫…?」
心配そうに声をかけると、彼はゆっくりと目を開け、私を見上げた。
「橘…さん、無事で良かった…」
優花の回復魔法のおかげで、傷は浅いものは塞がれていくけれど、完全には治りきらない。
私は健太くんの傷を見て、無事でいてくれたことに安堵すると同時に、苦しそうな彼の姿に胸が痛んだ。
「健太くん…私のことを守ってくれたんだね。ありがとう…本当に、ありがとう…」
健太くんが少し微笑みながら、どこか懐かしそうな目で私を見つめているのに気づいた。
「そういえば…『健太くん』って呼んでもらうの、久しぶりだなぁ。小学校以来、かな?」
その言葉に、私は頬が熱くなるのを感じた。
彼の目の中には、どこか昔の私たちが重なっているようだった。
私も思わず顔を背けたくなり、恥ずかしさを感じながら彼を見つめ返す。
山下先輩が冷静に彼を観察し、顎に手を当てている。
「なるほどな。佐藤くん、レベルアップで頑強さが強化されたから、ここまで耐えられたんだな。俺たちの戦闘力にも追いつくレベルだぜ」
彼は真剣な表情で健太くんを見つめ、その頑張りを称えるように褒めた。
山下先輩からの言葉を聞いて、健太くんが照れくさそうに目を細める。
そんな様子を見て、私も自然と笑みが浮かんだ。
ところが、佐々木くんが一歩前に出て、険しい表情を浮かべながら口を開いた。
「ふん、なんか二人、昔からの友達っていう関係があるみたいで、見てるこっちが呆れるよ。橘さん、そんなに彼が大事なのか?」
佐々木くんの言葉に、場の空気が一瞬凍りつく。
私は思わず目を見開き、彼の険しい表情に戸惑った。
「佐々木くん、そんな…」
彼が、心にもないことを言っているのはわかる。
けれど、その言葉にはどこか彼の心の中のもやもやした感情がにじみ出ているようで、私の胸も少し苦しくなった。
高木くんがため息をつき、佐々木くんに冷ややかな視線を送った。
「翔太、今はそんな話をする時じゃないだろ。佐藤くんがここまでして橘さんを守ったんだぞ?」
すると佐々木くんは一瞬目を伏せて、言い過ぎたと感じたのか、わずかに眉間にしわを寄せた。
それでも、彼の表情からは、私への複雑な感情が見て取れる。
健太くんはそんな彼を気にすることもなく、気力を振り絞るように私を見上げた。
その目は、これまでのどんな言葉よりも、私の心を温めるようだった。
「橘さん、怪我は…ないよな?」
その問いかけに、私は少し驚き、彼の優しさに胸が締めつけられるのを感じた。
私の安全を心から気遣ってくれる、そのまっすぐな気持ちが伝わってきたからだ。
「うん、大丈夫…健太くんこそ、大丈夫なの?」
私は、彼の手を握りながら、そっと返した。
彼が私のためにここまでしてくれたことに感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。
「それに、健太くん…また『橘さん』じゃなくて、昔みたいに『美咲ちゃん』って呼んでほしいな」
その言葉に、健太くんは一瞬戸惑ったように見えたが、すぐにやわらかな笑みを浮かべた。
そして、彼がゆっくりと「美咲ちゃん」と言ったとき、私の心はふと昔の小学校時代に戻ったような気がした。
まるであの頃の彼がそのまま目の前にいるかのような感覚だった。
その温かな瞬間を破るように、後ろで険しい顔をした佐々木くんが低い声で口を開いた。
「俺…もう、パーティーを抜けようと思う」
その言葉に、場の空気が凍りつく。
高木くんが佐々木くんをじっと見つめ、優花も唇を噛んで彼を見つめていた。
「翔太、ここまで一緒にやってきたのに…どうして?」
高木くんが佐々木くんに問いかけたが、佐々木くんは視線をそらし、どこか遠くを見るような目をしている。
佐々木くんは、橘さんの方に鋭い視線を投げかけ、険しい表情のまま言い放った。
「橘さん…お前は、俺の気持ちなんて全然分かっちゃいないんだろうな。俺だって、あいつと同じくらい命をかけて戦ってきたんだ。佐藤よりも俺の方が強いはずなのに!」
その言葉に、私は驚きと動揺を隠しきれなかった。
佐々木くんはいつもどこか頼り甲斐があるように見えて、こうして怒りを露わにするのは珍しい。
高木くんがすかさず、眉をひそめながら口を挟んだ。
「佐々木、それは見苦しいぞ。俺たちはチームとしてここまでやってきた。個人の強さの話じゃないだろ?」
だが、佐々木くんはその言葉に反応するように、突然高木くんの胸元を掴んだ。
佐々木くんの怒りが爆発し、荒々しい口調で言い募った。
「どうせお前は優花と一緒にいて、楽しいんだろう!二人で仲良くやっていけよ、勝手にイチャイチャしやがって!」
周りに気を配らず、感情に任せた暴言が続く。
その刃は、優花にまで向けられた。
「お前だってそうだよ、優花。俺のことなんてどうでもいいんだろ?結局、いつも拓海と一緒にいて、俺なんか必要ないんじゃないか?」
優花は一瞬驚き、目を見開いたが、すぐに唇を引き結び、じっと佐々木くんを見つめ返した。
その視線には、悲しみと苛立ちが混ざり合っている。
隣にいる高木くんの怒りもさらに燃え上がるのがわかった。
彼が拳を握りしめ、一歩前に出たところで、山下先輩が二人の間に割って入った。
「やめろ、翔太!」
山下先輩が声を張り上げ、二人を制止する。
佐々木くんは肩で息をしながら、それでも強い視線を山下先輩に向けた。
「連さん、俺は…もうここにはいられない。橘さんのために佐藤がボロボロになってまで助けに来てる。俺はあいつよりずっと強い田中ごとき相手にそんな風にはなれないし、なりたいとも思えないんだ。みんなのために頑張ってきたつもりだったけど…やっぱり、俺は自分がどうしたいか、もう一度考えたい」
その言葉が胸に突き刺さる。
私は言葉を見つけられないまま、唇を噛んで佐々木くんの言葉に耳を傾けていた。
そんなとき、優花が一歩踏み出し、震える声で静かに話し始めた。
「…私も、少し考えたい。拓海と二人で、しばらくダンジョンから離れてみるわ。美咲、私たちもそれぞれ、何か見つめ直す必要があると思うの」
「そうだな、橘さん」
と高木くんが深く頷く。
彼の声は、冷静だけれども、どこか決意が込められているように感じた。
「橘さん、俺たち、今のままじゃお互いを守り合うこともできない。こうやって傷つけ合う前に、それぞれが立ち止まって、自分自身と向き合うべき時かもしれない。それがきっと、今なんだよ」
彼の言葉が重く響く中、山下先輩がさらに話を続けた。
「俺も、橘、お前が今の状況で無理をしているのは分かっていた。でも、無理をしているのはお前だけじゃない。皆も、気づかないふりをしていただけだ。こうして、チームがバラバラになるなら、それぞれが今一度自分を見つめ直してから、また集まろう。それまでは、一旦距離を置くべきだ」
私の目に涙が溢れ出し、止まらなくなった。
喉が詰まって言葉を発することができず、ただみんなの顔を見回すことしかできなかった。
全員の表情はそれぞれ違うが、どれも真剣で、私への責めるような視線ではなかった。
「…ごめんなさい。私が、私のせいで…」
悔しさと申し訳なさが混ざり、声が震えた。
佐々木くんが呆れたように視線を外し、優花はただ寂しそうに私を見つめている。
そんな中で、健太くんの手が私の肩にそっと触れ、優しい眼差しが私に注がれた。
彼が握りしめてくれる温かさが、胸の痛みを和らげてくれたけれど、今の私にはそれが耐えられなかった。
「…ごめん、みんな、本当にごめんなさい!」
私は振り払うように、その場から逃げ出した。
後ろで優花が「美咲!」と呼ぶ声が聞こえたが、振り返ることができなかった。
駆け出す足は重たく、苦しい胸の内を抱えたまま、私は涙が止まらずに走り続けた。
私のせいで、みんながこんなにもバラバラになってしまった。
家族のためにも、仲間のためにも、そして自分自身のために…。
そう思っていたのに。
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