第23話 ダンジョンが発生した日
「聞いたか?街の広場に大きな穴ができたんだってさ!」
教室に入るなり、クラスメイトたちが興奮気味に話していた。
私が座る席の近くでも、周りの子たちがスマートフォンを手に、動画やニュースを見せ合っている。
「ねえ、橘さんも見てみなよ。なんかダンジョンが現れたって!」
そう話しかけてきたのはクラスメイトの一人で、彼女は私にスマートフォンを差し出した。画面には、広場に突如として現れた巨大な穴が映し出されている。
警官や救助隊が周りを囲み、まるで未知の存在を扱うかのように警戒している様子が伝わってきた。
「本当に…ダンジョン?」
私は思わずつぶやいてしまった。
映像に映る巨大な穴は、どこか吸い込まれそうな不気味さがあって、目を逸らせない。
「そうらしいよ!テレビでもさっきから特番でやってるみたい。あの広場がこんなことになるなんてな…」
クラスの男子たちも集まってきて、みんな興味津々だ。
誰もがダンジョンが現れたことに驚きつつも、少しワクワクしているようだった。
けれど、私は不安な気持ちがこみ上げてきた。
こんなものが急に現れて、何も起こらないなんてことはないはずだ。
思わず深呼吸し、胸の中でざわつく気持ちを静めようとした。
放課後、私は急いで家に帰った。
靴を脱いでリビングに入ると、父と母、そして翔がテレビに釘付けになっているのが見えた。
「おかえり、美咲。今日は早いじゃないか」
父が私に気づき、少し微笑んでくれたが、目はすぐにテレビに戻る。
私も彼らの隣に座り、テレビ画面に映るニュース映像を見つめた。
「ダンジョンって、本当にあるんだね…」
私はぼそっと言葉をこぼした。
今朝まで、こんなことが現実に起こるなんて考えもしなかったのに。
「すごいことになってるな。街の広場がまさかあんなふうになるなんて、思いもしなかった」
父は驚きと興奮を混ぜたような声でつぶやいた。
「でも、何が出てくるか分からないし、危険なこともあるんじゃないかな?」
母が心配そうに言いながら、父を見つめる。
いつも温和な母の顔に、珍しく緊張が走っていた。
「そうだね。でもな、美咲、さっきテレビで言ってたんだけど、ダンジョンの中には見たこともないような鉱石や資源があるらしいんだ。あれが見つかれば、この街にとっても大きな発見になるかもしれない」
父の目が微かに輝いているのを見て、私は何も言えずに頷いた。
普段、父はこんなふうに目を輝かせることは少ない。
彼も新しい何かに希望を見出したいのかもしれない。
「でも…危ないところだって聞いたよ。なんでも、誰かが中に入ろうとして怪我をしたとか」
翔が不安そうに言いながら、私の手を握った。
まだ小さかった頃、怖いものを見たときに私のそばに寄ってきたときのままの様子で。
「そうだよね。いくら珍しいものが見つかるかもしれないって言っても、何が潜んでるか分からないんだから。あまり近づかないほうがいいんじゃない?」
母が翔の肩をさすりながら、私たちに言い聞かせるように話す。
「まあ、そうだな。お前たちには関係のない話だし、近づかないのが一番だよ。だけど…あの中で何が見つかるのか、少し興味はあるな」
父が苦笑いを浮かべながら言った。
彼の言葉には、どこか寂しさも含まれている気がした。
もしかしたら、父もこの街が変わっていくことに寂しさを感じているのかもしれない。
「…そうだね。でも、私たちには関係ないよね」
そう言いながらも、私は画面に映るダンジョンの穴を見つめ続けた。
普段なら絶対に近寄らないであろう場所に、なぜか吸い寄せられるような気持ちがしてならない。
その夜、私は布団に入りながら、何度もあの穴のことを考えた。
学校で聞いた話と、テレビで見た映像が頭の中で渦巻き、何度も何度も繰り返される。
あれが、本当にただの穴ならいいのに。だ
けど、もしあの中に何かが隠されているとしたら――そう考えると、心の奥底が妙に騒がしくなるのを感じていた。
ただの穴が、家族にどんな影響をもたらすのか、そのときはまだ、想像もしていなかった。
週明けの朝、いつもと変わらず教室はざわついていた。
私はクラスメイトと軽く挨拶を交わしながら、ふと教室の端に目を向ける。
そこには、佐藤 健太くんと、彼の仲間である中村 洋介くん、高橋 拓也くんが集まって、熱心に話し合っている姿があった。
健太くんたちは、教室の中でも一際目立つ存在だ。
もっとも、良い意味で目立っているわけではない。
ラットと呼ばれるロボットの開発を進めているらしいけど、クラスメイトの多くは彼らを「変わった三人組」として見ている。
以前からクラスの端で盛り上がっているけど、最近はますます独特な空気を醸し出している気がする。
私がそんなことを考えていると、突然教室が静まり返った。
視線をそちらに向けると、健太くんたちの前に、サッカー部のエースである田中 一樹くんが立ちはだかっていた。
その隣には、田中くんの彼女である藤崎 美穂さんが、腕を組みながら険しい表情を浮かべている。
「おい、デブオタ!」
田中くんが低い声で呼びかけ、健太くんを睨みつけている。
健太くんは驚いた顔をしながら、田中くんを見上げた。
「な、何の用?」
と戸惑いの表情で尋ねたけれど、田中くんの怒りの表情は変わらなかった。
「何の用じゃねえだろ?お前ら、やらかしたんだってな」
田中くんが声を荒げると、美穂さんが一歩前に出てきて、強い視線を健太くんに向けた。
「そうよ、あんたたち、私の下着盗撮したでしょ、ブタ!」
彼女のその言葉に、クラスメイトたちが一斉にざわつき始めた。
私も驚き、思わず彼らの方に視線を向けた。
健太くんは
「はっ?そんなことするわけないだろ!」
と必死に否定したけれど、田中くんと美穂さんの視線は冷たく、クラス全体もどこか彼らを疑っている雰囲気が漂い始めた。
「とぼけんなよ、デブオタ。お前ら、変なロボットを体育館で動かしてただろ?で、女子更衣室の前を這い回ってたって聞いたんだよ」
田中くんは鼻で笑いながら、健太くんを小馬鹿にしたような視線を投げかける。
周りのクラスメイトたちが、ひそひそと話し始める。
健太くんたちが何かを言い返しても、クラス全体の視線はどこか冷たく、私は心の中でモヤモヤとした気持ちが広がるのを感じた。
彼らがそんなことをするとは思えない。
けれど、私も何も言い出せず、ただ見ているだけだった。
田中くんと美穂さんは、まるで勝利を確信したかのように笑いながら、健太くんたちを侮辱する言葉を次々と投げかけていく。
彼らが教室を去っていくと、健太くんはただ項垂れたまま、何も言えずに立ち尽くしていた。
友達と一緒に昼食をとりながらも、どうしても気が散ってしまう。
健太くんが困った表情を浮かべている姿が頭から離れないのだ。
どうして私は、あのとき何も言えなかったんだろう。
ふと、昔のことを思い出す。
小学校の頃、あの頃の健太くんはいつも元気で、ちょっと乱暴だったけれど、私を守ってくれる頼もしい存在だった。
小学校3年生の頃、私はクラスの男子たちにからかわれることが多かった。
内気で声も小さくて、反論する勇気もなく、泣いてしまうこともあった。
だけど、そんな私の隣に座っていた健太くんは、いつも「大丈夫か?」と心配そうに声をかけてくれた。
健太くんは、当時のクラスで少し「ガキ大将」的な存在だった。
体が大きくて、力も強い。
だから、男子たちも彼の前では大人しくしてくれたし、私も彼が隣にいてくれると安心できた。
健太くんが私のことを「美咲ちゃん」と呼んでくれるのも、なんだか嬉しかった。
でも――小学校4年生の頃、事件が起きた。
私が男子4人組にからかわれて泣いていると、健太くんが飛び込んできて、大声でその子たちを責めた。
「美咲ちゃんを泣かせるな!」
彼がそう叫んだ瞬間、あっという間に取っ組み合いの大喧嘩になった。
男子4人相手に健太くんが立ち向かう姿はまるでヒーローみたいに見えた。
でも、数で劣る健太くんは次第に押され、力尽きた瞬間、彼が思い切り吹っ飛ばされて、倒れた先にいたのが私だった。
私はそのまま転んで腕を怪我してしまった。
痛みで涙がこぼれ落ちたけれど、それ以上に健太くんが私の目の前で倒れている姿に、胸が締めつけられるような気持ちだった。
その後、先生にも知られ、クラスで大問題になった。
健太くんもその日の放課後、両親に連れられて私の家に謝りに来た。
母も父も、彼のことを責めはしなかったけれど、あの日の彼の申し訳なさそうな顔は、今でも鮮明に覚えている。
「ごめん、美咲ちゃん。俺、守りたかったのに…」
彼が小さな声でそう呟いたとき、私はかける言葉が見つからなかった。
父が健太くんの肩に手を置いて、優しく話しかけたのを覚えている。
「健太くん、美咲が怪我をしたのは残念だけど、君が悪いわけじゃない。あの子たちが悪かったんだ。だけど、暴力で解決するのは良くないことだって覚えておいてほしい。勇気を持つのは素晴らしいことだけど、その力をどう使うかが大事なんだよ」
父はそう言って、健太くんを諭した。
その時の彼の小さなうなずきと、何かを決意したような表情が印象に残っている。
それからというもの、健太くんはめっきりおとなしくなり、暴力を振るうこともなくなっていった。
むしろ、どんどん教室の隅で静かに過ごすようになり、いつの間にかパソコンに夢中になっていったのだ。
彼の周りから笑い声が消え、ひとりで何かを研究するようになっていく彼の姿を見て、私は少し寂しく感じていた。
中学、高校と進むうちに、健太くんはどんどん変わっていった。
今では私のことを「美咲ちゃん」と呼ぶこともなくなり、私も彼を「健太くん」と呼ぶことさえ少なくなってしまった。
それでも、私の中では彼がいつも隣にいてくれた記憶が残っている。
あの頃は、健太くんがどんなに頼もしく感じられたか、今でも忘れられない。
そして今、私はまた彼が困っている姿を見て何もできなかった。
小学生の頃は、彼が私を守ってくれたのに、今度は私が力になりたいと思う。
けれど、私は何もできなかったし、勇気を出せなかった。
あの時から、健太くんは私を守ってくれた。
だけど今、私は彼を助けることができない自分が悔しい。
いつか、彼にまたあの頃のように「ありがとう」と言える日が来るだろうか。
あの日の健太くんの顔を思い出しながら、私は胸の奥で小さな決意を抱いた。
放課後、私は教室でぼんやりと窓の外を眺めていた。
友達が「帰りにカフェ寄って行かない?」と誘ってくれるのも、今日は断ってしまった。
気がつけば、健太くんたち三人が屋上へ向かっていくのが見えたからだ。
健太くんたちが屋上に向かう姿を見つめながら、私は胸がざわつくのを感じた。
私が子供の頃に知っていた健太くんとは違う、今の彼。
疎遠になってしまった理由を、ずっと心のどこかで気にかけていたんだと今更ながらに気づく。
屋上での話が終わったのだろう。
健太くんたちが下りてくるまで、私は校門の前で待つことにした。
屋上へ行く勇気はなかったけれど、彼らが出てくるところを見送るくらいはできる。
そう思って、空を見上げながら待っていると、しばらくして三人の姿が見えた。
健太くんたちが楽しそうに話しながら歩いてくる。
健太くんは、屋上での出来事に少し元気を取り戻したように見えたけれど、私が視線を向けると彼の表情が少し変わった。
お互いに目が合い、私は思わず歩み寄った。
「佐藤くん」
健太くんが私の声に気づいたはずなのに横を通り過ぎようとした。
「待って!」
彼が驚いたようにこちらを見つめるその表情は、いつも以上に疲れているように感じられた。
「えっと、さっきは…何もできなくてごめんね。田中くんたちにいろいろ言われてるのを見てて、声をかけたかったんだけど…私、どうしたらいいのか分からなくて…」
私は言葉を探しながら、彼に謝罪の言葉を口にした。
あのとき、私はただ見ていただけだった。
私は何もできなかった。
「いや、橘さんは何も悪くないよ。僕たちが注意不足だったんだ。ラットを制御しきれなかったのがいけなかったんだし、僕たちがしっかりしていれば、あんな誤解は生まれなかったはずなんだ」
健太くんが自分を責めるように言う。
「…でも、佐藤くんたちは、そんなことしないってわかってる。私は…ちゃんと見てるから、私たち、昔はもっと話せていたのに、どうして今はこんなふうになっちゃったんだろう?あの頃のこと、私も覚えてる。佐藤くんがいつも私を守ってくれて、あの日…私の家に来てくれたことも…」
私は、かつての健太くんのことを思い出しながら、彼に伝えたかった言葉を少しずつ口にした。
健太くんは私の言葉に一瞬驚いたような表情を浮かべたけれど、そのまま黙って俯き、そしてそっと背を向けた。
「ありがとう、橘さん。でも、僕たちがどう見られても、それは僕たちの問題だから。気にしないでほしい。だから、もう大丈夫だよ」
そう言って、健太くんは私に一礼し、歩き出した。
私は、彼の後ろ姿をただ見送るしかできなかった。
「健太くん…」
彼の後ろ姿が、やがて校門の向こうに消えていく。
私はその場にしばらく立ち尽くし、彼のことを胸の奥で思いながら、帰る足を重たく動かし始めた。
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