第五話 三手先を読む

 ひばりは物心ついた頃から、毎日、お母さんの車でおじいちゃんの家に通っていた。おばあちゃんはひばりの生まれる直前に病死したため、おじいちゃんは生まれ変わりだと言って、特別ひばりのことを可愛がっていた。

 小学校に入学したばかりのある日、ひばりがおじいちゃんの家に着くと、おじいちゃんは畳の部屋で、知らないおじさんと正座して向き合っていた。ふたりの間には立方体の木の箱。上には小さな木片が置かれている。

「参りました。お強いですね。この街で一番お上手だと思います」

 おじさんは立ち上がると、深々とお辞儀をして家を出ていった。

「おじいちゃん、何やってたの?」

「近所の方と将棋という遊びをやってたんだ」

「何それ?」と尋ねるひばりに、おじいちゃんはわかりやすくルールを教えてくれた。簡単に表すと「動きが違う数種類の駒を動かして、相手の王様を倒す遊び」らしい。

「おじいちゃんは将棋の腕に自信があって、さっきの対戦で二百十二連勝目なんだ」

 おじいちゃんの手元のメモ帳には、数えきれないほどの「正」の字。ひばりは胸を張って、おじいちゃんに意気込んだ。

「それなら私に将棋を教えてよ。千回続けて勝つまでに、私が連勝を食い止める!」

 その日から、ひばりはおじいちゃんの家に行くたび、将棋の指し方を教わった。ひばりは持ち前の集中力を活かして鍛錬を重ねつつ、学校の勉強も頑張った。そして、念願の中高一貫校に合格し、おじいちゃんが七百連勝を突破した頃には、将棋の有名な戦法を自由に使いこなせるくらいまで上達していた。

 ある日、ひばりがおやつのまんじゅうを食べていると、おじいちゃんが話し掛けてきた。

「ひばり、強くなってきたね。おじいちゃんとよく指す、近所のおじさんよりも強いよ」

「私はまだまだだよ。どうしておじいちゃんはそんなに強いの?」

 すると、おじいちゃんはどこか遠くを見つめながら答えた。

「常に三手先を読んでるからね。盤をいじらなくても、何が起こりそうか考えてる」

「それなら盤面が煮詰まっても、ピンチじゃなくて、ただの通過点に見えるんだね」

「そうだよ。今は通過点であって、対戦終了までには逆転しているから問題ない。ひばりも今みたいに三手先を読む習慣を作れば、しなやかな闘い方ができるようになるよ」

「わかった!」とひばり。おじいちゃんはしわだらけの手で、ひばりの頭を撫でてくれた。


 ひばりが中学三年の秋、ひばりのスマホにおじいちゃんから電話が来た。九百九十九連勝を達成したので、最終決戦がしたいとのこと。ひばりは土曜日、万全な状態でおじいちゃんの家を訪ねた。到着すると、おじいちゃんは将棋盤に駒を並べて待っていた。

「私、絶対に負けないからね!」

「いいや、今日もおじいちゃんが勝つ!」

 おじいちゃんは言い切る口調だったが、なぜか普段の覇気が感じられない気がした。

 将棋盤を挟んで向かい合い、礼をして対戦が始まる。ひばりはこれまでに培った経験を活かし、好戦的に攻めていったが、おじいちゃんも強い駒を見事に使いこなし、対戦開始から一時間後も、戦況はほぼ互角だった。

 しかし、対戦が中盤に入った頃、ひばりは異変に気付いた。普段は取った駒を積極的に使うおじいちゃんが、全く使わずに温存しているのだ。さらに、その後もおじいちゃんは、工夫次第で優勢になれそうなチャンスを、あっけなく逃していった。結局、ひばりがおじいちゃんに王手をかけ、対戦は終わった。

「いやー、ひばり、本当に強くなったね。おじいちゃんの連勝記録もここまでかー」

「嘘つき! 手加減しないで真剣にやってよ! 私は手抜きのおじいちゃんに勝ちたかったんじゃない。街で一番将棋が得意な、全力のおじいちゃんに勝ちたかったの!」

 ひばりは叫びながら、自分にこんなに大声が出せるということに驚いていた。そのくらい、ひばりの放った想いは本物だといえた。

「悪かった。今からもう一度、やり直そう」

「もう一回なんてないの! 一度でも手を抜ける人だってわかったら、もうそれは難攻不落のおじいちゃんじゃない。私、帰るね。もう二度と遊びになんて来ないから!」

 荷物をまとめ、足早に立ち去る。ひばりは必死に言い訳をするおじいちゃんの言葉を遮るように、強く玄関の戸を閉めた。


 新型コロナウイルスのニュースが、世間に出回り始めたのは、翌月のことだった。日本には上陸しないだろうという予想とは裏腹に、コロナは世界中に広まり、マスク必須の毎日になった。しかし、直接会えなくなってからも、ひばりはおじいちゃんに電話をかけて仲直りするという選択を取らずにいた。

 ある朝、ひばりが目覚めると、喉の辺りが変だった。もしやと思って病院で診断した結果、コロナ陽性だった。運よく入院での隔離はされず、自宅療養との指示が出る。ひばりは素直に従い、学校を休んで回復に努めた。

 お母さんから緊急の電話があったのは、翌日の夕方だった。おじいちゃんが倒れて病院に運ばれたらしい。ひばりはすぐお見舞いに行きたかったが、コロナのせいで叶わなかった。その数日後、次いで不幸な知らせを聞かされる――おじいちゃんが亡くなった。

「お葬式は明後日だけど、ひばりは来てはダメよ。いろいろ思うことはあるだろうけど、どうか我慢してくれるかな?」

 お母さんの言葉からは、精一杯ひばりを気遣っているのが感じ取れた。

 そして、お葬式当日。ひばりは見知らぬ配信者の歌を聴いた。ひばりの境遇に似た、コロナ禍を悔やむ歌詞。そのときひばりは、言葉では表せないエネルギーを感じた。コロナの症状が治まったある朝、ひばりはキッチンで朝食を作っているお母さんに頭を下げた。

「私、次は創作がやりたくなってきた。音楽を作りたいんだけど、貯金を全部はたいても、デスクトップパソコンは買えないの」

「パソコン代なら、私が全部払うよ。天国のおじいちゃんなら、ひばりの挑戦にはきっと背中を押してくれるからね」

 お母さんの優しい笑顔が、記憶の中のおじいちゃんの笑顔と重なる。気付いたら、ひばりの両目からは、目の前が見えなくなるほどの大粒の涙が溢れていた――。


「……という過去があって、私は将棋を越えるくらい、曲作りを極めると決めたの」

 ひばりは凛とした声で話すと、手元の器に入ったそばをすすった。向かいの席の美咲が誇らしげな顔をする。

「つまり、もし私がいなければ、今のひばりは音楽を作ってないってことね!」

「そうだね。まだ将棋を続けていたか、別の将棋の代わりになるものを探していると思う」

 すると、隣でかき揚げを器に移していた虎山くんが口を挟んだ。

「あのアドバイスには、そんな由来があったのか。朱村さんはいつも、自分の力で人生を変えようとしていて尊敬するな」

「私もそう思う。ひばりは昔、『大学では毎日をもっと楽しんで、コロナ禍で邪魔されたときのぶんも、取り返さないとね』って話してた。今の話を聞いてると、ひばりの好奇心旺盛で努力家な性格が伝わってきて、私も頑張らないとって思うよ」

「『春の遺言』もそういう歌詞だったね」と亀川くん。そうだ、昼食を終えて帰ったら、続きを作るんだった。

「初めて話すけど、俺たちみんな、朱村さんの曲を聴きまくってるんだぜ? 昨日も玄から『朱村さんの曲で何が一番好き?』ってLINEが来て、俺は『全部』と返した。それくらい、一緒に作れることを誇りに思ってる」

 ひばりは嬉しくて、耳が熱くなった。空になったつゆの器に、ふたをしながら返答する。

「ありがとう。『春の遺言』でも、みんなの期待に応えられるように頑張るね!」

 三人は「お互い様だよ」と微笑んでくれた。


 それから四人は家に戻って、続きの作業に移った。三人はひばりが楽器を打ち込んだり、エレキギターを録音したりするたび、イスの後ろで興味津々な反応を見せてくれた。四時間後、『春の遺言』が完成する。大学で音源をお披露目したときは、修正内容を確かめるのが難しかったが、今日は同じ部屋にいるため、解釈が食い違ったらすぐに意見をもらえて、効率よく確実に修正することができた。

「……って感じで、ひとまず今回の、私の担当部分は完成でいいかな?」

「ありがとう。夢中で作業してたら、あっという間だったけど、もう五時になるんだね」

 窓の外に目をやる。まだ西日は眩しくないが、あと少しで一気に暗くなるだろう。すると、虎山くんが口を開いた。

「俺と玄は今からカラオケ行こうと思ってるんだけど、ふたりは?」

「ごめん。私、今日はカラオケよりも、大切な予定があるんだ」

「それなら、俺らはこの辺で失礼します」

 虎山くんと亀川くんは「お邪魔しました」とお辞儀をして、朱村家を去っていった。ふたりきりになると、ひばりは美咲に気になっていることを尋ねた。

「カラオケより大切な予定って何?」

「ひばりとの初お泊りだよ。今夜、ひばりの親御さんたちは帰ってこないんでしょ?」

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