第三話 カンテラ
土曜日の朝、亀川玄はバイト先のカフェで、開店の準備をしていた。このお店は自営業で、ご年配の優しいご夫妻が経営している。玄と同じ大学の朱村ひばりという女学生も勤めていて、ふたりは同じ曜日に出勤する。
テーブルのアルコール消毒を、何度も念入りにして、店主さんに次の指示を求める。すると、店主さんはスタッフルームの奥から、立てかける式の黒板を持ってきた。
「メニューの絵を描いて、店先に立てかけようと買ったんだけど、あいにく僕らは絵が苦手でね。亀川くんに描いてほしいな」
それから玄は左手のチョークで、黒板にコーヒーとワッフルを描いた。しかし、絵を描くのは久々なので思うように描けない。そのとき、出入口のドアが開き、朱村ひばりが入ってきた。彼女は黒板を見ると、「それ、亀川くんが描いたの⁉」と大きな声を出した。
「そうだけど、下手くそだし、諦めようかな」
「亀川くん、もしよければ、私たちの創作サークルに入ってくれないかな?」
急に話題が飛んで、玄はなんのことだか理解できなかった。固まってしまう玄に、朱村さんはいきさつを説明してくれた。
「……ということで、今、私たちのサークルは、イラストレーターを探してるの。だから、亀川くんの力を貸してほしくて」
「そろそろ開店だから、朱村さんは着替えて、亀川くんは定位置についてね」
後ろから店主さんの声。玄たちは会話をやめ、脳内を仕事モードに切り替えた。
四時間後。今日の勤務が終わり、玄が更衣室でエプロンを脱いでいると、朱村さんも入ってきた。着替え終わると、忘れないうちにタイムカードを機械に通す。玄はカードを引き出しに戻し、部屋を出ようとしたが、急に不安になって、再び引き出しを開けた。
「亀川くん、どうしたの?」
「タイムカードが押せてるか心配になって」
「いつも念入りに確認してるよね。そんなに心配しなくても、お給料はもらえるよ?」
朱村さんが話したところで、玄のスマホがアラームを鳴らす。確認すると「クリニック受診・十四時」という文字が画面に映った。
クリニックの診察室。眼鏡をかけた若い女の先生が近況を尋ねてくる。この先生は玄の主治医の
「……そうですね。タイムカードの件は、亀川くんの病気の症状が現れているので、お薬を考え直したほうがいいかもしれません。あと、私はサークルの参加には賛成です。ほどよい刺激の中で生活したほうが、人間関係の練習になりますし」
宇佐美先生は冷静な声で話すと、テーブルのペットボトルを一口飲んだ。
「だけど、僕は高校時代、絵を見られたせいで、いじめられたんですよ?」
「高校ならいじめをする人はいるかもしれませんが、大学生は良識のある大人だと思いますよ。ところで、私は最近話題の『
先生は今みたいに、ときどき自分の私生活を交えながら話す。「たまにします」とうなずくと、先生は明るい声で続けた。
「例えるなら、亀川くんはカンテラです。剣やハンマーのように、敵を攻撃することはできませんが、洞窟では大活躍します。暗闇を照らせなかったら、勇者は思うように冒険できないように、亀川くんを必要としてくれる居場所は必ずあります。カンテラは無理して敵を倒さず、洞窟に入ったとき、周りを照らすことだけに徹すればいいんです」
先生は話し終えると、部屋の時計に目をやった。玄は話を聞いてもらって満足したので、礼を言って立ち上がった。
月曜日の放課後、玄は朱村さんからの情報を頼りに、視聴覚室へ向かった。教室に入ったら、ノートパソコンを囲む三人の学生と目が合い、そのうちのひとり、朱村さんが嬉しそうに言った。
「見学に来てくれたんだね。ちょうど昨日作った曲を、みんなに聴かせようとしてたところ。亀川くんも聴いていってよ」
パソコンからはケーブルが伸び、左右のスピーカーに繋がっている。スピーカーの近くには、紺色の帽子の女子と、金髪の男子が立っていた。それから三人は、朱村さんの曲を黙って鑑賞した。アウトロが終わると、帽子の女子が「今回は激しい系だね」と拍手し、続けて玄に挨拶した。
「自己紹介が遅れたね。私は歌唱担当の蒼谷美咲で、この金髪が動画担当の虎山月都。亀川くんはイラストレーターなんだっけ? どこに投稿してるの?」
「ネットには上げてないんだ」
「もったいない。亀川くんならフォロワー五桁も夢じゃないと思ったんだけどな」
玄はそんなに言うならと、ポケットからスマホを出して、自作品を見せてあげた。
「凄いな。俺の動画とも相性抜群だ」
「やっぱり天才だね! このアングルから描くなんて、普通じゃ考えつかないよ」
なんだか耳の裏側がゾクゾクする。玄は見えない誰かに、心のかさぶたをはがされていくような恐怖を覚え、気付けば逃げるように視聴覚室を飛び出していた。
「……またちょっと天才と褒められたからって調子に乗りやがって」
「……普通のことができないから、ああやって浸るしかないんだよ」
鼓膜を襲うのは、昔浴びせられた悪口や罵倒の言葉。聞こえないはずの声が、玄の脳内を飽和していく。玄は耳を塞ぎながら廊下を走り、人の少なそうな食堂へ駆け込んだ。
食堂は営業時間が終わったので、休憩所になっていた。隅のほうの席で頓服薬を飲んでいると、後ろから朱村さんの声がした。彼女は玄の向かいのイスに、遠慮気味に腰掛けた。
「……もしさっき、気に障るようなことを言ってしまっていたらごめんね」
「大丈夫だよ。ちょっと昔のことを思い出してしまって、自分は入部しても、周りに貢献できないと思ったんだ」
「亀川くんは絵を描くだけでいいんだよ?」
「実は僕、病気を抱えてて、みんなが普通にできることが苦手なんだ。バイト先でタイムカードを何度も確認してしまうのもそう。かといって、自分の絵にも自信がない。前に信頼できる人に『RPGのカンテラになる』との助言をもらったけど、カンテラが光れるのは、勇者が火を灯すからだし、火がついても風で消えてしまうことがある」
「もう少し詳しく聞ければ、何かアドバイスができるかもしれない。過去の嫌なこと、言える範囲で聞かせてくれないかな?」
玄はおもむろに息を吸った――。
自分が周りと違うこと、周りとの違いは「短所」にしかならないこと。そんな事実に引け目を感じ始めたのはいつだろうか。昼休み、教室の片隅で控えめに弁当箱を開く。今日もドア付近で騒ぐ人たちに目を付けられないよう、玄は静かに箸を口へ運んだ。
彼らがけたたましく笑うたび、箸を持つ玄の左手が震える。左利き――玄は気付いたときには、利き手を直す機会を失っていた。玄の悩みは周りに馴染めないこと。もっと早く直せば、クラスに溶け込めたかもしれないが、昔の玄は余裕があって、違いを「個性」だと誇ってすらいた。いわば昔の玄にとって左利きは、アイデンティティの象徴だった。
「おい、亀川。お前の落書き見せろよ!」
教室の入り口から、いじめっ子たちが歩いてくる。玄が仕方なくスケッチブックを渡すと、すぐに「何これ」と下品な笑い声が返ってきた。すると、近くの女子が口を開いた。
「でも、昨日、美術の先生に気に入ってもらえてたよね」
「……またちょっと天才と褒められたからって調子に乗りやがって」
「……普通のことができないから、ああやって浸るしかないんだよ」
彼らは憐れむように玄を見下して、好き放題にからかって去っていった。去り際に玄にスケブを投げつける。今日は絵を破られなくて助かったと、玄は胸を撫で下ろした。
帰り道、カバンを背負い、ひとりで自転車を漕ぐ。ふと、通学路のクリニックが玄の目に留まった。ここは心の病気を扱う心療内科だ。玄には心を病んでいる自信はないが、心の病気の専門家から意見をもらえたら、悩みが軽くなるかもしれない。玄は自転車を降り、恐る恐るクリニックの自動ドアを抜けた。
勇気を出して院内に入ると、受付スタッフが怪訝そうな表情で「本日、ご予約はされていますか?」と尋ねてきた。
「いや、予約はしていないんですけど、今日はちょっと心が辛くて来ました」
「でしたら、電話でご来院の予約をしていただいて、また後日の受診をお願い致します」
やっぱり無理だよな。諦めて帰ろうとしたとき、入り口から若い女の先生が入ってきた。
「あれ、あなたは学生さん?」
「高校二年です。わけあって落ち込んでいて、縋るようにこちらの病院に来たのですが、お門違いみたいなので帰ります」
すると、彼女はさっきの受付スタッフに話し掛けた。少し相談したのち、玄に向き直る。
「初めまして。私は精神福祉士の宇佐美といいます。今日は偶然ですが、この後の予約がないため、特別に無料であなたの相談に乗れます。あなたのお名前は?」
「亀川玄です。僕、学校でいじめられていて、でも、誰に話せばいいかわからなくて……」
訴えるように話しながら、玄の目から涙がボロボロと溢れていた。宇佐美先生は玄の背中をさすって、診察室へ案内してくれた。
「……という感じで辛いんです」
整頓された綺麗な診察室。玄が悩みを打ち明けると、宇佐美先生は眼鏡の位置を直し、うんうんと何度も相槌を打ちながら、最後まで話を聞いてくれた。
「少し話してみて思いましたが、私は亀川くんのことが心配です。今夜、親御さんに電話をかけさせていただくので、うちのクリニックに通うようにしていただけると嬉しいです」
宇佐美先生が主治医なら信頼できそうだ。玄は丁寧に頭を下げ、先生の差し出してくれた書類に、住所や電話番号を記入した――。
静かな学生食堂前。玄が話し終えると、朱村さんは「大変だったね」とうなずいた。
「いじめは卒業まで続いたけど、先生のおかげでうまく受け流せるようになったんだ」
「信頼できる人が見つかってよかったね。ところで、さっきの悩みだけど、宇佐美先生ならどんなアドバイスをくれそう?」
「『周りと比べず、簡単なことから始めよう』って言いそうかな……そうだな、自分のペースでいいなら、これからも描けそうだよ」
「私たちの作品、相性が完璧だと思うんだ。だから、無理のないペースでいいから、力を貸してくれないかな?」
「わかった。そんなに気に入ってくれるのなら、僕、サークルに入ってみるよ」
「ありがとう。カンテラは自発的にはつかないけど、消えてしまうたびに、私たちが何度も灯し直すよ」
玄はようやく安心した様子で、「これからよろしくね」と微笑んだ。
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