31.とある密偵の結末 その2 ③
「フィオナと一緒に旦那様の所に行っております。今日の旦那様は……その……栄養ドリンクを飲んでおり……」
クロエの歯切れの悪い報告に、セリーヌの指が一瞬、持っていたティーカップの縁で止まる。
(栄養ドリンク……それってつまり、今日はいつも以上に……)
その言葉の意味を即座に理解すると、胸の奥にじんわりとした熱が広がるのを感じた。
それは、抑えようとしても完全に消しきれない感情だった。
「まぁ……それでは今日はもうだめですね」
セリーヌは口元に穏やかな笑みを浮かべ、何事もないように言葉を紡ぐ。
だが、胸の奥では複雑な感情が渦巻いている。
(どんな時間を過ごしているのかしら……旦那様にたっぷり愛していただけるなんて、羨ましいわね)
自分で多くの側室をあてがった立場でありながら、どこか羨ましく、そして嫉妬すら覚える。
その感情に気づいてしまうたび、自分が「領主であり、そして女である」という事実を突きつけられるような気がした。
(本当は、私だけを愛して欲しいのに……)
ふと浮かんだ願いを、セリーヌはそっと押し込めるように息を吐いた。
新興貴族としての立場を守り、この家を盤石なものにする――それが彼女の責務だ。
個人的な感情に揺らいでいる場合ではないと分かっている。
だが、それでも……完全にその想いを消すことはできなかった。
「二人とも無事で済めばいいのだけど……」
あえて軽く流すように言葉を続けたセリーヌの声に、リリアーナとエリゼが驚きの声を上げ、目を見開く。
「えっ?」
リリアーナはセリーヌの言葉の意図を測りかねるように眉を寄せ、エリゼは口元を抑えながら小さく首を振った。
その反応を横目で見つつ、クロエが淡々と報告を続ける。
「まぁ、フィオナは大丈夫だと思います。体力だけは旦那様と互角以上ですから」
その言葉に、セリーヌの瞳が一瞬揺れた。
彼女は無意識に指を軽く膝に置き、そこに少しだけ力を込める。
(互角以上……ね。それなら、彼女はどれほど満たされるのかしら?)
セリーヌは膝に置いた手を静かに引き寄せ、背筋を伸ばした。
「そうね……でも、二人だけだと足らないかもしれないわね」
そう言いながらも、羨望の感情を振り払うようにリリアーナとエリゼに目を向ける。
「リリアーナもエリゼも行ってみる?」
突然の提案に、リリアーナは耳まで真っ赤に染まり、慌てて手を振った。
「い、いえ、まだ私には早いかと……!」
エリゼも小さく震えながら視線を伏せる。
「は、はい。私もまだ心の準備が出来ておりませんので……」
セリーヌは二人の様子をじっと見つめ、ふっと口元に微笑を浮かべた。
(リリアーナもエリゼも、本当に素直で可愛らしい。彼女たちはまだ、この世界が求める厳しさを知らずにいられるのだから)
「そう、まだ……ね」
その一言に、リリアーナとエリゼはそっと顔を伏せ、小さくうなずいた。
その仕草はまるで子どもが叱られるのを恐れているようで、セリーヌの心を和ませた。
(いずれ、二人もこの世界で自分の立場を理解し、その重みから逃れることはできない日が来るわ。でも、今は……この純粋さを守ってあげたいわね)
彼女が二人の反応を楽しむように軽く息をついたその時、リーゼロッテが冷静な声で話を切り出した。
「お母様、それよりこれからどうされるのですか?」
リーゼロッテの言葉に、セリーヌは視線を彼女へ向ける。
落ち着いた物腰でティーカップをテーブルに置き、柔らかな口調で応じた。
「そうね……リリアーナの話を聞いても、あの男がそこまで計画して動けるような気が全くしないのよね」
その言葉にリリアーナも頷く。
「はい、それは同感です」
セリーヌはリリアーナの反応に小さく笑みを浮かべた後、視線をリーゼロッテに戻し、再び冷静な声を響かせる。
「私としては、一度、辺境伯になって暴発してもらいたいわね」
「暴発するでしょうか?」
リーゼロッテはセリーヌをじっと見つめながら、静かな声で問い返した。
セリーヌは微かに首を傾げながら言葉を続けた。
「そうなると思うわ。目的は王家と縁戚関係になって権力を手に入れることだったんでしょう? リーゼが手に入らず、辺境伯領だけを得たら、どうするつもりかしら」
その柔らかな声に応じるように、リリアーナは少し言葉に詰まりながらも、丁寧に答えた。
「王家の縁戚を強引にでも主張するためには、リーゼロッテ様との婚姻がどうしても必要ですね。それが無いとしたら……」
リリアーナの慎重な発言を受け、リーゼロッテが冷静な口調で推測を口にする。
「皇国との貿易を操作して、王家に揺さぶりをかける、といったところでしょうか」
セリーヌは彼女の落ち着いた答えに内心で軽く頷きながら、椅子にもたれ直した。
視線を遠くの木々に向けながら、指先でテーブルの縁をそっとなぞる。
「それもありえるけど、レーベルク男爵領に貿易港ができれば、それも意味を失くすわね」
セリーヌはこれからの計画を頭の中で巡らせながら、自然と言葉が口をついて出た。
「貿易がだめなら……武力……とかですか?」
リリアーナが眉間に皺を寄せ、少し迷いながら声を上げた。
その慎重な口ぶりに、セリーヌはほんの少しだけ目を細める。
「そうね。その可能性は否定できないわね」
セリーヌは落ち着いた口調で応じながら、心の中でさらに状況を整理した。
(皇国だけの力では不十分。その後の展開を考えれば、さらに強力な後ろ盾が必要になるわね……魔族と手を組む可能性も排除できないけれど、それは――)
「魔族と手を組む……というのも考えられなくはないわね」
セリーヌの声が静かに響いた。
その一言に、リーゼロッテがわずかに眉を動かし、即座に口を開く。
「まさか、それはありえないでしょう」
その冷静な反応に、セリーヌは軽く肩をすくめるように微笑を浮かべる。
「なぜあり得ないのかしら」
「魔族は人類の敵ですよ。未だに帝国との間で争いを続けています。もし魔族と手を組んだりしたら、帝国との全面戦争になりかねません」
リーゼロッテが落ち着いた口調で理路整然と反論する。
その真面目さに、セリーヌの唇がわずかに動く。
「そうね。普通であればそう思うわ」
一旦言葉を区切り、少しだけ間を置く。
そして、次に続く言葉にはわずかな毒が混ざっていた。
「でも……相手はギデオンよ。粘着質でプライドが高い癖に知能はゴブリン並み。良い女を見つけては腰を振るだけの男なのよ」
その言葉に、リリアーナが目を大きく見開いて慌てたように声を上げた。
「せ、セリーヌ様、それはいくら何でも言い過ぎかと……!」
セリーヌはリリアーナの反応を楽しむように軽く笑った。
「ま、まぁ、そうね。ちょっと言い過ぎたわ。でも、愚か者は時として何をしでかすかわからないわ。だから、愚かなのよ」
「いや、でも、まさか……そこまではさすがに……」
リーゼロッテはセリーヌの発言に半信半疑な表情を浮かべ、眉間に皺を寄せながら呟いた。
誰もが言葉を失い、静寂が東屋を包み込む。
セリーヌは周囲の反応を感じ取りながらも、冷静な視線を遠くの木々に向けていた。
人類の敵である魔族と手を組むなどあり得ない――誰もがそう思っている。
だが、それが現実になるかもしれないという想像は、あり得ない妄想であるはずなのに、どこか妙に納得感を伴って頭に浮かぶ。
風が木々を揺らし、葉擦れの音だけが静けさを彩っていた。
その音が、まるで現実と妄想の境界を曖昧にしているかのように響く。
その時――。
東屋の空気を切り裂くように慌ただしい足音が近づいてきた。
「せ、セリーヌ様……た、大変です!」
リリィが顔を赤くしながら駆け込んでくる。
セリーヌは驚きを隠さず、それでも落ち着いた声で問いかけた。
「まぁ、リリィ。どうしたの?」
リリィは息を整えながら言葉を絞り出した。
「お、オフィーリア様から『なるなる
その焦りに満ちた表情を見て、セリーヌは背を正して軽く眉を上げる。
「何かあったのかしら?」
セリーヌの冷静な声が響く。
その落ち着きとは対照的に、リリィは慌てた様子で続けた。
「なんでもギデオン卿が騎士団を動かして、オフィーリア様が滞在されているサント=エルモ商会を包囲した、と……!」
その報告を聞いた途端、リリアーナが驚きに目を見開いた。
「な? なぜ叔父様が勝手に騎士団を動かしているの。しかも、守るべき民に向かわせるなんて……!」
セリーヌはちらりとリリアーナを見やり、唇に薄い笑みを浮かべる。
「ほら……やっぱり愚か者なんじゃないかしら」
その一言に、リーゼロッテが首をかしげながら冷静に返した。
「もしかしたら、深い考えがあったのかもしれませんよ」
「そうね」
セリーヌは肩をすくめ、わざと軽い調子で答える。
「相手をこうだと決めつけるのも、愚か者のすることですわね」
少しだけ間を置いてから、視線をリリィに向けて続けた。
「でも、どうしましょう。旦那様は栄養ドリンクを飲んでいるのよね……」
「そうですね……さすがに今からは無理……ですね」
リーゼロッテが困惑した表情で答える。
その真面目な反応に、セリーヌはくすりと笑いを漏らした。
「あら……よく考えたら、一番の愚か者は旦那様になるわね」
「な、なぜですか?」
リーゼロッテが驚きの声を上げると、セリーヌはわざとらしく目を細めながら言葉を続ける。
「だって、後先考えずに栄養ドリンクを飲んで腰を振ってるだけなんて、ギデオンと同じじゃない」
その言葉に、リリアーナが顔を赤らめながら小声で抗議した。
「で、ですから、せ、セリーヌ様、それはいくら何でも言い過ぎかと……!」
「そう仕向けたのはお母様ではありませんか!」
リーゼロッテが勢いよく反論する。
その目にはわずかな非難の色が浮かんでいる。
「あら、ホントね、そうだったわ」
セリーヌは肩を軽くすくめ、飄々とした笑みを浮かべた。
その無邪気な反応に、リリアーナが思わず苦笑するのだった。
「それより、電話でオフィ―とお話しなくてもよいのですか?」
リーゼロッテは小さくため息をつきながら、少し呆れたようにセリーヌを見やる。
「そうね。詳しく状況を聞いてみましょうか」
そう言うとセリーヌはリリィから魔導携帯電話を受け取り操作し始めたのだった。
◆◇◆ お礼・お願い ◆◇◆
ここまで読んで頂きありがとうございました。
セリーヌの活躍がもっと見たい!!
と思ってくださいましたら、
https://kakuyomu.jp/works/16818093086711317837
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