23.とある密偵の受難 その3 ②

 ◇ ◇ ◇ 


 夜風が冷たく吹き抜ける中、アメリアは後宮を抜け出し、薄暗い路地へと足を踏み入れた。

 女装はすでに解いており、装いは夜の影に溶け込む地味な男物の外套だ。

 瓦の隙間から吹き込む冷気が肌を刺し、人気のない路地にはしんとした静寂が漂う。

 慎重に後ろを振り返りながら足を運ぶアメリアは、小さく舌打ちを漏らした。


「まったく……ギデオンも急に呼び出しやがって。変装道具の隠し場所を探すのも一苦労だってのに……」


 彼の手には丸めたウィッグや衣装が抱えられている。

 これが誰かの目に触れれば即座に怪しまれるだろう。


(どう考えても見つかったらヤバいだろ)


 路地の奥で瓦礫の間に小さな空間を見つけると、アメリアは素早く荷物を詰め込み、石や枯葉で隠した。


(これで大丈夫……だと思うけど)


 一応辺りをじっくりと見渡し、気配がないことを確認する。

 念入りに隠したつもりだが、少し不安が残る。

 再び歩き出したアメリアの背筋に、一瞬鋭い感覚が走った――誰かに見られているような気がする。

 反射的に振り返ると、暗がりから「うにゃ~ん」という猫の鳴き声が聞こえてきた。


(なんだ、黒猫か……)


 息を整えると、アメリアは小さく肩をすくめて歩を速めた。

 解いたウィッグの重さから解放された頭は驚くほど軽く、動きも自然に力強さを取り戻していた。

 やがて視界に入ったのは、夜空を背景にそびえ立つギルドハウスだった。

 彫刻が施された石壁は無機質な冷たさを湛え、窓から漏れる明かりがその巨大さを浮かび上がらせている。

 華美な装飾と威圧的な佇まいは、この街の権力そのものを象徴しているかのようだった。


「さて……肉屋ギルドの長、どんな奴なんだか」


 アメリアは唇の端をわずかに上げ、ギルドハウスの重い扉を押し開けた。

 中に入ると、外観にも劣らぬ華美な空間が広がっていた。

 大理石の床は磨き上げられ、歩を進めるたびに靴音が澄んだ音を立てる。

 燭台に灯された蝋燭の香りが漂い、壁に並ぶ絵画はどれも精緻な装飾が施されている。


(権力を見せつけるのもいい加減にしろっての)


 心中で皮肉を漏らしながら、アメリアは視線を受付へ向けた。

 受付には無表情の女性が控えていた。彼女が近づくと、一瞥して冷たい声を発する。


「ご用件は?」

「ゴーストハンドが手紙を受け取りに来た」


 アメリアが優雅に答えると、女性は眉をひそめて一瞬だけ間を置いたが、すぐに手元の帳簿に目を落とす。


「お待ちください」


 受付嬢が席を外し、しばらくして別の職員を連れて戻ってきた。

 職員に案内され、廊下を進むアメリアの視線は、冷静に周囲を観察していた。

 整然と配置された家具や壁を飾る装飾品の数々――そのどれもが、このギルドの財力と地位を余すところなく物語っている。


(おー、おー、さぞかしお肉を高く売りつけて儲けてるんだろうね)


 内心で皮肉を浮かべながらも、足取りはあくまで無駄のない動きだ。

 やがて、厚みのある木製の扉の前で職員が足を止めた。

 アメリアは小さく息を整え、表情を引き締める。

 職員が軽くノックをすると、中から低く響く男の声が返ってきた。


「入れ」


 扉がゆっくりと開かれる瞬間、背筋に一瞬だけ冷たいものが走る。


(威圧感たっぷりじゃないか。でも、こういうのには慣れてるよ)


 自分にそう言い聞かせながら、アメリアは堂々とした足取りで部屋へ踏み入れた。

 部屋は広々としており、床には上質なカーペットが敷き詰められている。

 中央には重厚な円卓が置かれ、その奥にはヴォルフが座っていた。

 彼の鋭い目つきと無骨な顔つき――まるで肉食獣そのものだ。

 左右には二人の男が控えている。

 一人は軽薄そうな男で、ニヤリと笑いながらアメリアを値踏みするような視線を向けてきた。


「こいつがギルド長の言ってた駒っすか。まだ坊やにしか見えないっすけど、大丈夫なんすか?」


 その挑発めいた言葉に、もう一人の冷静な男が眉をひそめる。


「挑発はよさんか。それで、お前が子爵から遣わされた密偵、ということで間違いないのか?」

「ええ、そうです。それで、閣下から預かっている手紙を頂けますか?」


 アメリアは取り巻きたちの視線を気にも留めず、テーブルの空いている席に静かに腰を下ろした。

 そして、何のためらいもなくヴォルフの前にあるカップを手に取ると、ボトルからワインを注ぎ足した。

 深紅の液体を軽く揺らし、香りを嗅ぐこともなく一口含む。


(へぇ……意外といいワインじゃん。でも、後宮で飲むやつと比べると竜とドラゴンフライだな)


 アメリアは内心でそう皮肉を浮かべつつも、顔には一切出さない。

 ヴォルフはその様子をじっと見つめ、口元に薄い笑みを浮かべた。

 そして、隣に座る軽薄そうな男のカップをひょいと奪い取り、ボトルからワインを注ぐ。

 抗議の声が上がったが、ヴォルフは無視したままボトルをアメリアに手渡す。


「ふっ、ゴーストハンドというぐらいだから、もっと臆病者かと思ってたんだがな」


 アメリアはボトルを受け取ると、自分のカップに注ぎながら、柔らかな口調で応じた。


「領民から搾り取った金で飲むワインは、さぞかし芳醇なのかと思いましてね」


 その言葉に、軽薄な男の表情が一瞬歪む。


「なんだ、ずいぶんと口が達者じゃないっすか。こりゃ仕事じゃなくて、話芸でも披露しに来たんじゃないんすか?」


 ニヤつきながら挑発するその顔に、アメリアは微笑みを崩さず、さらに静かな声で返した。


「話芸なら、まずあなたからどうぞ。私は客ですから、先に楽しませていただけると嬉しいのですが」


 その返しに軽薄な男の顔が引きつる。

 言葉を詰まらせた後、顔を赤らめながら再び口を開きかけたが――


「よせ」


 冷静な男の鋭い声が部屋に響いた。

 軽薄な男は舌打ちをし、不満げに口を閉じる。

 一方で冷静な男は自分のカップを回しながらアメリアに視線を向けた。


「で、その味はどうだ?」


 アメリアはゆっくりとカップを回し、深紅の液体を一口含む。

 喉を通すと軽く唇を拭い、静かに答えた。


「そうですね……涙と汗が混じって、ちょっとしょっぱいですかね」


 その言葉に、冷静な男の目がわずかに細められる。

 軽薄な男は「何だよそれ」と小声で呟いたが、冷静な男がちらりと睨むと何も言えなくなった。

 部屋の空気が一瞬凍りつくように感じられた中、ヴォルフが短く笑った。


「お前の言う通りだな。ほら、手紙だ」


 そう言って、ヴォルフが手紙を前に差し出す。

 アメリアが手を伸ばそうとした瞬間、ヴォルフは手紙を引き、自分の手元で軽く揺らした。

 その挑発的な視線には、アメリアの反応を試す余裕が見て取れる。


「これが欲しいんだろう?」

「閣下と敵対する気ですか? もしそうなら、今すぐ報告しておきますが」


 アメリアは微笑みを浮かべながらも、どこか棘のある口調で答える。


「まぁそう言うな。お前にこの手紙を渡す代わりに、俺の頼みを聞いてもらいたいんだが」


 ヴォルフの声は静かだったが、その目には有無を言わせぬ力が宿っている。


(これ以上余計な仕事を増やされるのは勘弁してほしいけど……ここで断るわけにもいかないな)


 アメリアは胸の中で軽く舌打ちしながらも、表情には一切それを出さず、柔らかな微笑みを浮かべているだけだった。


「なに、難しい仕事じゃない」


 ヴォルフはカップをゆっくりと揺らしながら、挑発するような口調で続ける。


「あの方からも融通きかせるように言われてんだろ? その片手間に、ちょっと調べるだけだ」


 アメリアは視線を一瞬だけ伏せ、控えめにため息をつくそぶりを見せた。

 慎重に選んだ言葉で控えめに返す。


「……分かりました。潜入のついでにできる範囲で、なら」


 その返答にヴォルフは満足そうに頷き、手元の手紙を静かにアメリアの前に置いた。


「話が分かるじゃないか。それじゃあ、早速、盗賊団を討伐したのは誰か、氷室の準備状況、魔獣の肉の在庫、それと領主と一緒にやってきたお貴族様たちが後宮でどんな生活をしているか、について調べて欲しい」


 アメリアは微笑みを浮かべたまま、内心ではその無茶な要求に大きな溜め息をついていた。


(これのどこが「ちょっとした仕事」だよ……後宮に潜入してるだけでも命がけだっていうのに)


「おいおい、そんなもん簡単だろ?」


 軽薄そうな男が横から口を挟み、アメリアを値踏みするような視線を向けてくる。


「密偵ってのはそういうのが得意なんじゃねえの?」


(こいつ余計な一言が多いな。だったらお前が行けよ)




◆◇◆ お礼・お願い ◆◇◆


ここまで読んで頂きありがとうございました。


アメリアの男性バージョンも見てみたい!!

と思ってくださいましたら、

https://kakuyomu.jp/works/16818093086711317837

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