19.とある密偵の受難 その2 ①

 レーベルク男爵領の後宮侍女の面接に無事合格し、アメリアが後宮に召し上げられてから数日が経ったある日。

 平民出身で、侍女としての経験もないアメリアは、第六階級の見習い侍女として、同じ平民の下級侍女たちと共に後宮内の「小さな里村」と呼ばれる場所で共同生活を送っていた。

 「小さな里村」といっても、その規模は全く小さくない。

 立派な屋根の家々が並び、畑や多くの家畜が育てられ、鍛冶工房まで整備されている。

 その光景に、初めて足を踏み入れたときの衝撃が蘇る。


(ホントここは別世界だよな……)


 彼女がそう思わざるを得ないのも無理はない。

 食事ひとつとっても驚きの連続だった。

 今朝の食事は白パンにスクランブルエッグ、それにソーセージという献立だったが、アメリアにとっては人生初の「豪勢な朝ごはん」だった。

 ふっくらとした白パン、絶妙な塩加減の卵料理、そして赤く濃厚なトマト風味のソース――れもこれも、彼女がこれまで暮らしてきた村では見ることすらできないものだ。

 「贅沢だなあ……」とつぶやきながら皿を片付けると、アメリアは今日の仕事のために村を出た。

 今日の仕事は、離宮の庭を整える手伝いだという。

 しかし、そこに向かうのは簡単ではなかった。

 小さな里村から後宮御殿やリーゼロッテたちが暮らす離宮までは、運河で区切られており、徒歩では到底たどり着けない。

 移動手段は小船のみで、時間もかかるため簡単には行けないのだ。

 「後宮」と呼ばれながら、どこか後宮らしくない雰囲気も漂っている。

 小さな里村や隣接する広大な果樹園には、後宮で働く女性たちの家族――つまり男性――も普通に住んでいる。

 それどころか、領民たちまで仕事の手伝いで数百段の階段を上り下りしているという光景を目にすれば、なおさらそう思える。

 渡し場に立ち、運河をぼんやり眺めるアメリアは、深いため息をついた。


(……女装してまで潜入する意味、あったのかよ?)


 確かに、小船に乗るには「後宮で働く女性」という条件を満たさなければならない。

 ギデオンから渡された、使用済みの女装用魔導具のおかげで、こうして後宮で働けているのは事実だ。

 だが――

 その魔導具の妙に肌になじむ気持ち悪い感触と、ギデオンのお下がりという事実を思い出すたびに、なんとも言えない嫌悪感がこみ上げてくる。

 「後宮で働くために必要」と自分に言い聞かせてきたアメリアだったが、ふと遠くにそびえる離宮を囲む壁に目を向けた。


(泳いで渡って、そのまま壁を越えれば行けるんじゃないのか……?)


 運河の幅は確かに広いが、幼少期から特別な訓練を積んできたアメリアにとっては大した距離ではない。


(だったら、こんなもん着なくても入れたんじゃねーのかよ……!)


 魔導具の嫌な感触を思い出し、拳を握りしめる。

 とはいえ、今さら「やっぱり潜入する必要なかったです」とギデオンに言う勇気もない。


(もういい。これはこれで意味があったと思うしかない……そう思わないとやってらんねえ!)


 アメリアは整備道具を抱え、小船に乗り込んだ。

 船が静かに運河を進み始める中、彼女は心の中で何度も自分にそう言い聞かせていた。


 漕ぎ手の慣れた櫂さばきに合わせて水面を揺らしながら、アメリアはほんのわずかに前方からの風を頬に感じる。

 里村の船着き場を出て少しして、左手には高い石壁に囲まれた狩猟場が現れた。

 領主専用の狩猟場だったらしいが、今では第二里村を作るために工事が行われているらしい。

 一方、右手には先ほど遠くから見ていた離宮を覆う壁がそびえ立つ。

 じっくりと見ても、大した高さではないように思える。


(今度、登ってみるか……)


 侵入はできてもリーゼロッテを連れて戻る時の方が大変だろう。

 どうしたものか思案していると、狩猟場と離宮を越え、十字路で右折して後宮の入り口にある回廊の船着き場が見えてきた。

 アメリアは小船から下り、リーゼロッテが住む離宮(風雅ふうが宮)へ足を向けた。


(そういえば、この離宮もおかしいよな……)


 面接後に案内されたときは草臥れた廃墟のようだったはずだ。

 それが今では、思わず息を呑むほど見事に甦っている。

 曲線を描く金色の瓦屋根が柔らかな陽光を受けてきらめき、その下には赤い柱が堂々と立ち並ぶ。

 柱には精巧な彫刻が施され、その細工の精密さに、思わず目を奪われた。

 足元には、敷石が整然と並び、その周囲を囲む庭園の木々が風にそよいでいる。

 庭の中心には澄んだ水面をたたえた池があり、空と離宮が鏡のように映り込んでいた。

 同じような離宮が他にも四つもあると思うと、改めて後宮の広さに驚かされる。


(あれ? 庭もこんなに綺麗だったっけ? 前は雑草だらけで荒れ放題だったはず……。これって、手入れする必要……なくない?)


 整備道具を抱えた自分の手元を見下ろし、アメリアはなんとも言えない気分になった。

 そんな彼女の耳に、後ろを歩く先輩侍女たちの声が聞こえてくる。


「ねぇねぇ、知ってる?」

「何が?」

「この離宮さ、旦那様が一夜で修繕したんですって」

「えっ、ホントに? あの旦那様、ホントに何でもアリなのね……」


 一夜で修繕? アメリアの足が思わず止まった。


(何でもアリって、どういう意味だよ……。いやいや、そもそもそんな魔術があるのか?)


「でも、誰もその瞬間を見てないんだって」

「そりゃそうよ。私たち下級侍女は夜になったらここに居られないんだから、見られるわけないじゃない」

「確かに……でも、一夜で修繕ってどうやったのかしら?」

「旦那様、一応貴族だから魔術で時間でも巻き戻したとか?」

「えっ、貴族ってそんなこともできるの?」

「知らないわよ! 貴族なんて怖くて近寄れないし……」

「その割に、ここで普通に働いてるじゃない?」

「ここは別よ! セリーヌ様にリーゼロッテ様、それにオフィーリア様……みんなお優しいし!」

「そうそう。食事は美味しいし、住む場所も快適だし、ずっとここで働きたいわ。旦那様……お手付きしてくれないかしら」

「ちょっと、それなら私が先輩なんだから、私が先でしょ!」


 軽口を叩き合う声を背に、アメリアはぞっとしていた。


(時間を操る魔術……本当にそんなものがあるのか? 普通に考えればありえないだろ。でも、イシュリアス辺境伯領に行ってたはずの旦那様が、突然ここにいたりするし……)


 次々と浮かぶ疑問に頭が混乱しながらも、アメリアは整備道具を握り直し、小さく息を吐いた。


(だとしたら……やばいな。旦那様って、商人のギフトしか持ってない残念貴族だったんじゃないのかよ……)


 ギデオンのヤローに文句を言いたい気持ちをなんとか抑えながら歩いていると、声が聞こえた。


「リーゼロッテ様、フィオナ様、おはようございます」

「あら、おはよう。掃除をしに来てくれたの?」

「はい。お部屋の中をピカピカにしますね!」

「ありがとう。よろしくお願いするわ」


 声のする方に目を向けると、先輩侍女がリーゼロッテと会話をしているところだった。

 二人の柔らかな笑顔に、アメリアは少し圧倒される。

 挨拶が終わり、リーゼロッテが歩き出したところで、フィオナがふいに口を開いた。


「あ、そうそう、私も侍女なんだから、『様』付けしなくていいからね」

「えっ、いえ……フィオナ様は貴族で上級侍女ですから……」


 先輩侍女は戸惑いながらも、かしこまった態度を崩さない。

 その会話を横耳で聞いていると、リーゼロッテが足を止め、アメリアの目の前に立った。


「リーゼロッテ様。おはようございます!」


 慌てて整備道具を足元に置き、アメリアは深く頭を下げた。


「おはよう、アメリアさん。あら、それは庭のお手入れに使う道具かしら?」

「はい。ですが……もう必要なさそうですね……」


 アメリアは苦笑しながら周囲を見渡して答えた。


「確かに、そうですね」


 リーゼロッテも微笑を浮かべて頷く。


「それじゃあ、その道具を持って私についてきてくれるかしら?」

「は、はい!」


 元気よく返事をしたアメリアに、駆け寄ってきたフィオナがニンマリと笑う。


「アメリアさんも捕まっちゃったんだね~。ふふ、まぁ、ちょっと大変かもしれないけど、一緒に頑張ろうよ!」

「えっ?」


 フィオナの言葉に戸惑い、アメリアは思わず首を傾げた。

 フィオナは楽しそうに先を行き、アメリアは整備道具を持ち直してリーゼロッテの後ろに続いた。




◆◇◆ お礼・お願い ◆◇◆


ここまで読んで頂きありがとうございました。


もっと後宮で働く侍女たちに活躍の場を!!

と思ってくださいましたら、

https://kakuyomu.jp/works/16818093086711317837

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